1. 椿のある洋食屋

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1. 椿のある洋食屋

 ここから見える景色はいつも冴えない。  昭和のいつ頃建てられたのかは知らないが、今の建築基準法ではありえないほどに、隣接している建物との隙間があまりにも狭い。住まいである二階の部屋の窓を開けてみても、隣のコンクリート壁と、そこを這い回る蔦、ほんの少しの路地と店の前に植えられた木の一部が視界に入るのみだ。  田川到流(たがわいたる)は換気の為に開けた窓の縁に軽く体重をかけ、ぼんやりとため息をつきながら、秋風でからからに乾いた蔦の這う先を目で追う。  高校に入ってから少しして、実家のある潮の匂いのこびりついた漁師町を離れた。  そこにいられない事情があった為に、遠く離れた祖母の家で育った。それまでは常に潮騒の気配をこの身に感じていたのに、移り住んだのは内陸の片田舎で、それまでざわついていた心が急に凪いだような、変な気持ちになった。  しかし今はその祖母の元も離れ、住み込み可の古い洋食屋・カメリアの二階で暮らしている。店の前には赤い花をつける椿が植えられていて、英語が特別得意ではなかった到流でも、なんとなくカメリアが椿であるのだと知っていた。しかし店名などどうでも良い。  祖母のことは好きだったが、いつまでも頼るわけにはいかない。自立がしたかった。洋食屋を働き先に選んだことに、特段意味はない。単に住み込み可、というところに利点を見出だしただけに過ぎない。 「到流くーん、ちょっと降りてきて貰っていいかい」  カメリアのマスターの渋い声が、一階の店舗から聞こえた。休憩時間が過ぎていたことに気づき、慌てて立ち上がる。 「今、行きます!」  一階に聞こえるように声を張り、すぐに立ち上がる。  急な階段を降りてゆくと、マスターが誰かと会話しているのが聞こえた。  店内には、少し遅いランチを摂りに来た複数名の客が見て取れた。  口髭を蓄えた白髪交じりのマスターが話していた相手は、30代前後と思われる、いかにも好青年といった風体の人物で、濃紺の作業服を着て左手に工具箱を(たずさ)えていた。食事に来た客には見えない。  一切の苦悩を知らぬかのような、人当たりのよさそうな笑顔は、なんとなくだが勘に障った。しかしそれを表には出さず、到流は軽く会釈する。 「いらっしゃいませ」  感情のあまりこもっていない挨拶に、相手は少しだけ眉をひそめたが、それに気づいていないのかマスターが紹介をしてくれた。 「文雄(ふみお)。この子ね、バイトの田川到流くん。……到流くん、この人、前にここで働いてたことがある、中瀬文雄(なかせふみお)」 「……はあ」  興味なさそうに返した到流に対し、文雄は右手を差し出した。 「よろしく」  握手を求められているのだろうか。しかし握手などする習慣のなかった到流は、その右手を差し出し返すことを躊躇した。動く気配のない到流の右手に、文雄は自分の右手を所在なさげに引っ込める。 「二階の私の部屋の暖房がさ、調子悪いって言ってただろう? 文雄は今、親父さんの電機屋継ぐ為に修行中でね。ほら、近所に中瀬電機ってあるだろう? そこの一人息子」 「ちょっとわかんないです」 「あ、そうかい? まあいい。本格的に寒くなる前に、ちょちょいと見て貰おうと思って」 「そうですか」 「だから到流くん相手してあげて」  相手も何も、元々ここで働いたことのある人間なのだから勝手にやらせたら良いのではないだろうか。無反応な到流には構わず、マスターは話を進める。 「んじゃ文雄、よろしくな。私は今ね、これやってるから」  ドミグラスソースの匂いが漂う鍋を示したマスターを後目(しりめ)に、到流は仕方なく文雄を二階に案内することにした。  なんとなく自分とは合わない人種だと肌で感じたものの、単なる作業に入る業者と思えばなんてことはなかった。
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