クローバーの上で

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クローバーの上で

その朝僕は、いつものように早朝の仕込みを終え、開店の準備を整えてから、明るくなってきた外に散歩に出かけた。 「今日は狐の嫁入りだな」 晴れているのに霧雨が降る。けれど僕は傘をさす必要を感じなかった。 車の往来が少ない早朝の道を横断して、踏切を渡る。二手に分かれている道を左に折れ、しばらく進んでいくと、神社の敷地に入る。いつも毎朝お参りをするのが日課だ。今日も鎮守様に健康で働けることを感謝して、横の方から抜けるとクローバーがたくさん生えている場所がある。 そこに、君が倒れていた。 病気か何かで女性が倒れていると思って僕はすぐに駆け寄った。 「大丈夫ですか?どうされました⁈」 この時にどうして僕は、救急車を呼ばなかったんだろう。でも今思えば、呼ばなくて正解だった。 若草色のガーゼシャツに、柔らかいデニムのロングスカート。髪はほんのりブラウンで、服も肌も雨と朝露に濡れてしまっていた。おとぎ話でこういうのがなかったっけ。森の中でお姫様が眠ってる。そう思わせるくらい、君は柔らかく横たわっていた。 顔色を確認する。悪くない。うちで休んでもらおう。 僕は散歩を切り上げて、君を抱きかかえて店に戻った。全く躊躇しなかった自分が不思議だった。 店舗兼住宅の三階が僕の住まいだ。業務用のエレベータを使って上に上がる。まさか人を運ぶことがあるなんて。無理して設置して良かったな。 そっとベッドに寝かせた。 顔をよく見ると僕と同じくらいにも見えるし少し若くも見えるし年上にも見える。要は僕は女性の年齢がよくわからない。 顔に掛かった彼女の髪を整えてみて気が付いた。 僕はこれじゃまるで誘拐をしたみたいじゃないか……?親切で助けたつもりだけれど、起きてびっくりされるよな、きっと。 この人の目が覚めたら、事情を言って帰ってもらえばいい話だからいいか。 「あの、大丈夫、ですか……?」 人より少し低いと言われる声だから、怖がられないように言葉を優しく言うようにしている。客商売だしその辺りは気を付けているつもりだ。 けれど、目の前の人はすやすやと眠っている。大きく息をしているから大丈夫だと思うけれど、少し心配になってきた。開店までは数時間あるからいいけど、店が始まったら一人にさせてしまう。その前に目が覚めてくれると助かるんだけど。 君が寝返りを打った時に、スカートの裾がめくれた。膝が見える。思わずスカートを引っ張って隠そうとした時に見えたのは、膝の擦り傷だった。 「怪我してるじゃないか……」 僕はすぐに薬箱を取りに行った。 部屋に戻ると、君はベッドで上半身を起こしてぼんやりしていた。 「あ、大丈夫ですか?僕は木次蒼月(きすきあおつき)と言います。あなたが神社の横で倒れていたので、運んできました、ここは僕の店の上です」 「ありがとう、ございます」 少し低い掠れた声で、君は礼を言った。 「膝を怪我してらっしゃるようなので、今消毒を……」 「すみません、自分でやります……」 僕は消毒薬と脱脂綿を渡した。君の隣に薬箱を置く。 「自由に使って頂いて、構いませんので」 「あの、ここってどこですか……?」 「え?月見町ですけど……」 「それって、何県……?」 何だか様子がおかしい。片手で頭を押さえている。 「あの、あなたのお名前は……」 僕が尋ねると、君の顔はみるみる青ざめていった。 「……わから、ないんです……さっきから思い出そうとしてるんだけど、全然、わからなくて……!」 君は絆創膏を持ったまま泣き出した。 その時、どうしてそうしたのか自分でもよく覚えていないけれど、僕は君を抱きしめ背中を擦った。 「思い出すまで、ここに居てもらって大丈夫です。警察とか病院に行きたければ連れて行きますし、何でも言ってください」 泣いている君は、うなずきながらごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返して言った。 君が落ち着いてから、僕はこの家の説明をした。 「この家は、一階が和菓子屋で、二階が事務所、三階が居室です。今あなたがいるのは三階なんですけど……ちょっとついて来てもらえますか?」 三階の案内をする。 「ここが、リビングで、こっちがトイレで、向かいが風呂です。和室があるので、そこをあなたの部屋にしましょう」 「いえ、そこまでしていただくのは……」 「だって、記憶が戻らないとどこにもいけないでしょう?」 泣いている時に、警察はイヤな感じがするから、行きたくない、と君は言った。なら、ここに住んでもらうしかない。それに、記憶喪失が嘘だとしても、何か事情があるんだろうし。貴重品は事務所にしか無いから、三階を家探しされても特に問題は無い。 「僕は開店したらずっと店にいるので、ここでゆっくりしててください。冷蔵庫も適当に開けて食べてもらっていいので。あと、服が必要ですよね?後で買いに行きましょう」 僕は独り者だから女性の服は持っていない。開店は十一時だから、十時に開くショッピングモールで買い物をすれば間に合う。 「蒼月さん……」 「はい」 「ありがとう、ございます……」 君は混乱し怯えながらも、僕をまっすぐ見て言った。とてもきれいな色素の薄い瞳だな、と思った。 車に乗って、近くのショッピングモールに十時ちょうどに着いた。 「十一時に僕の店が開店するから、急いで買ってもらうようになるんですけど。今日はとりあえず数日分の普段着を買ってもらっていいですか?」 「はい、すみません。ちゃんとお返ししますので」 「いいんです、行きましょう」 ファストファッションの店で、ばたばたと上から下まで一通り揃えた。 「パジャマも忘れないで」 「あ!」 僕が言うと君はすっかり忘れていたと笑った。君の笑顔はこんな風なんだ。今朝初めて会った知らない人なのに、その笑顔を昔から知っている気がする。 戻ると開店前のいい時間になった。 「じゃあ、僕は仕事が始まるので、のんびりしててください」 「あ、はい、すみません」 そんな風に君との暮らしは始まった。
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