クローバーの上で

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一週間近く経つけれど、君の記憶は戻らない。早起きだけど、散歩に連れて行ってみたらどうだろうか。僕は君に提案をした。 「あの、あなたを見つけたのは朝の散歩の時だったので、一度一緒に行ってみませんか?もしかしたら、記憶が戻るきっかけになるかもしれないし」 「そうですね、行ってみます」 朝七時に家を出て散歩に出かけた。 「線路を渡って、こっちに曲がると、神社なんです。で、その辺りにあなたが倒れていて」 説明しながら君の表情を見るけれど、何かを思い出したようには見えなかった。 「おはよう!(あお)ちゃん!」 神社の境内から竹ぼうきを持って顔を出したのは、有紀さんだった。彼女はここの神社の娘で、弟の僕の同級生、有輝(ありてる)と共に神職として跡を継いでいる。 「おはようございます、有紀さん」 「あれ~?こんな朝早くから彼女とお散歩?隅に置けないな~?いつできたのよ」 隣にいる君を誤解している。でもこんな時間から一緒に散歩するのも無関係な人同士でするわけは無いし……。 「あ、えっと彼女は僕の遠い親戚で……若菜。木次若菜っていうんです。しばらくの間僕の家に来てて」 若草色の服を思い出して、僕は適当に君の名前を作った。 「初めまして」 そう言って君はペコリと頭を下げた。 「私は高島有紀です。ここの神主してるの。ご近所さんだからよろしくお願いします」 「いえこちらこそ……」 「そうだ、折角だからお参りして行ってよ!あ、宗教的に大丈夫?」 笑顔でフランクに話しかける有紀さんに、君は笑顔で大丈夫です、と答えた。お参りを済ませ、帰ろうとすると、 「蒼ちゃん、渡すものがあるから、ちょっと社務所に来て。若菜さん、ぶらぶらしててもらっていい?」 僕だけ引っ張られて行った。社務所の中に入る。 「蒼ちゃん、彼女、親戚でも何でもないでしょ?何があったの?」 有紀さんは神職のせいか勘がすごく鋭い。有輝曰く、巫女体質で、時々不思議なこと言うんだよな、ということだった。 「実は、六日前に神社横のクローバーが生えてる所で倒れてて、記憶が無いらしくて、うちに」 「警察は?」 「本人が嫌がってます」 はあ~と長い溜息をついて、有紀さんは言った。 「何それ。女の人拾ったわけ? 捨て猫じゃないんだよ?」 有紀さんはじっと僕の顔を見た。言葉では咎められているけれど、この見つめ方は、何かを感じて確認をしようとしているようだった。 「……今は不審なところは無い訳ね?」 「はい、今のところは」 「余計なこと言うけどさ、化粧品とか無いと困ってると思うよ。彼女肌が荒れてる。すっぴんじゃ出歩けないよ? 可愛いからすっぴんでもいけてるけどさ、可哀想よ、大人の女性なんだから」 そんなこと、考えもしなかった。 僕が言葉に詰まっていると、 「彼女は今どこにいるの?」 「うちの三階です」 「じゃあ、夕方迎えに行くから。財布持たせといてよ!」 一方的に言われて、僕は社務所を追い出された。 「ごめん、お待たせ」 僕は君の元へ走った。 「お腹空いたでしょう? 今日は美味しい鮭があるからそれ食べよう」 「私朝食作りますから、お仕事の準備されててください」 「ありがとう」 君は、名前や年齢や住んでいた場所は思い出せないけれど、身についている生活習慣は忘れていないようだった。何もできないので、せめて家事はやらせてください、と懇願され、僕は料理や掃除をお願いしていた。 君が作るみそ汁は美味しい。ちゃんとした主婦か、料理を仕事にしている人じゃないだろうかと思うくらい。 朝食を食べながら、さっきの名前のことを思いだした。 「あの、さっきは勝手に名前つけちゃって、すみません」 「いいんです。名前が無いと自分でも不安だったので。これからは若菜と呼んでください」 少しホッとした表情で、君は微笑んだ。 「あの、蒼月さん、私の名前の由来って……?」 「若草色の服を最初に来てたから……単純でゴメン」 言いながら顔が熱くなる。ほんとに申し訳ない。 「嬉しいです。私、あの色好きだから」 恥ずかしいので話題を変えよう。 「あ、そうだ、今日の夕方、若菜さんに会いに有紀さんが来ます」 「え?」 「この辺りの散策と買い物に行きましょうって言ってました。あんな感じで気さくな人だから、一緒に行ってみてください」 「わかりました」 「これは、財布です」 君が朝食を作っている間に、古い財布を引っ張り出してお金を入れておいた。 「え?それは申し訳ないです!」 「家事の賃金だと思ってください」 「本当に、すみません……」 「家事してもらって、助かってるからいいんです、若菜さん」 こんな風に紳士然と言っているけれど、自分の心の奥に、男としての下心があるのを僕は認め始めていた。最初に見た時に、腕の中に抱えたいと思ったのが答えだ。 若菜さん、と僕がつけた名前で君を呼んだ時に、自分の中に衝動が生まれて鳥肌が立った。僕は急いでご飯をかき込んで席を立った。 「ごちそうさま。美味しかったです」 「いつもそう言ってもらえてありがたいです」 君は穏やかに微笑んだ。ブラウンの髪は艶々で、染めたんじゃなくて元々色素が薄いんだ。そんな事に今気づいた。 若菜。 恐ろしい事に、僕は君が自分の名前を思い出さないといいなと思った。ずっと僕の側にいればいい、と。 その夜、君は有紀さんに連れられて、山のように色んなものを買ってきた。 「有紀さんからも色々頂いちゃって」 君は困惑していたけれど、有紀さんが全部生活に必要な物ばかりだから!と言っていて、実際その通りだったみたいだから、僕は逆にホッとしていた。 「不自由をさせてたから……やっと物は整ったかな?」 「いえ、そんな……ありがとうございます。有紀さんにも良くして頂くばっかりで……あと、アルバイトしないかって言われたんです」 「どこで?」 「あの神社で……枯葉を掃いたり、お掃除をして欲しいと」 「いいと思うよ」 この部屋にずっといるよりも、随分気持ちも楽になるだろう。彼女も収入が必要だろうし。 「蒼月さん、ありがとうございます!」 「もちろんだよ若菜さん、僕が縛れる事じゃないし、自由にやってください」 若菜はここに来て今までで一番の笑顔を見せた。
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