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 今日はまだ発売していない未発表の新曲のMVの撮影日だ。見慣れたスタッフに囲まれて、監督の指示に従い、立ち位置を確認する有馬を眺めながら、俺はふーっと息を吐く。 「それでは本番まで3、2、1」  有馬が砂浜の上を歩き始め、歌い出す。それを俺は追うように眺めながら、カットという声がかかるまで、集中して有馬のことを見守った。  今回のこの新曲は映画の主題歌が決定している。主演は演技派と話題の人気俳優だ。ストーリーに沿って、有馬が書き下ろした。シングルの発売も決定しているし、この話を聞いたテレビ業界からも既に歌番組のオファーが沢山来ている。 「カット」  カットがかかると、俺は一度瞬きをしてまた息を吐く。有馬がすぐさま「どうですか?」と行って、ビデオのチェックをする。それを俺は遠目で見守っていた。有馬が監督と話し合いながら、もう一回同じ場所に立つと、スタッフがTake2の合図を掛け、有馬が歌い出した。  MVの撮影には時間が掛かる。だから、いつもその日はそれ以外に仕事を入れないようにしていた。撮影も朝早くからして、終わるのは夜になったからだ。まさに、一日がかりである。  だが、今日のMVを見ていて、何だかいつもより時間が掛かりそうと思った。 ———有馬が。  それは有馬が車に乗った瞬間から、分かった事だった。雰囲気が、目が、表情が、何もかもがいつもと違う。今日がMV撮影だからとか、そういうことじゃなくて。多分、のだと思う。  詩乃が目黒さんから50曲作るように言われて、既に1週間が経っている。本人は、何だか覚醒状態になってゾーンに入っているし、有馬にとって他の人が近くで作詞作曲をしている姿を見て、何かといい刺激を貰えたのだろう。 「はい、良いと思います!」  有馬が笑顔で言うと、俺は有馬に近づき、「どう?」と聞く。有馬が水を口に含んで「好調です~」と言う声を聞いて「そう」と答える。監督が俺に目線を向けると、俺は会釈をした。 「いやー、どうしたの、有馬くん」 「え?」 「今日、何だかいつもと違うじゃん」  どうやらその事について、監督も気づいていたらしい。さすが、有馬がメジャーデビューしてからずっと有馬のMVの監督をしているだけある。 「今日は絶好調みたいです」  有馬が嬉しそうに言うと、「いいねぇ」と監督がニヤニヤしながら言う。 「俺も、頑張っちゃうよ」 「今まで頑張ってなかったんですか!?」  有馬が突っ込むと、監督がけらけら笑い「頑張ってますよーだ」と楽しそうに言う。俺はそれを聞いて、静かに笑うと、有馬が他のスタッフに呼ばれ「はーい!」と言って、俺らに断りを入れてからそちらに向かった。  その後ろ姿を見て、監督が「輝いてるねぇ」とゆっくり言う。 「有馬くん、雰囲気変わったね。何というか、って感じだよ」 「ですね」 「何かあったの?」 「まぁ、色々」  俺は曖昧に言うと、監督が「えー、気になる」と言う。俺は「まだ内緒です」と言って、口元に人差し指を当てると、監督が「楽しみにしてるよ」と言った。  有馬が俺たちの視線の先で、ヘアメイクさんにメイクを直してもらっている。俺はその光景を眺めながら、しばらく口を閉じていた。 「有馬くんはさ」  俺はしばらくして口を開いた監督を見ると、監督が「本当に凄い子だよね」と言う。俺はその言葉に嬉しさを覚えながら「ありがとうございます」と言うと、監督が口角を上げた。 「努力は欠かせないし、雰囲気良いし、謙虚だし、空気読めるし。歌も本当に上手いし、曲も全部凄い。でも、それが返ってっていうのが今までの印象」 「裏目に?」 「有馬くんってじゃん」 「……まぁ確かに」  俺は心の中で頷くと、そう言えば有馬が監督に何か言っている所を見たことが無いなと思った。監督だけじゃなく、俺にも、目黒さんにも、社長にも。 「有馬くんはんだよね。だからその優しさのあまり、自分の意見を言わない」  俺は「そうですね」と言うと、「甲斐くんもそう思う?」と聞かれたので、「はい」と答えた。 「だから今日の有馬くん見て、本当に驚いたよ。意見は言うし、雰囲気全然違うし。これはなって思った」  ニヤッと監督が笑うと、「これからもっともっと成長するね」と言った。まだまだ伸びしろがある、まだまだ成長する、進化する。そういう意味が込められているのだろう。 「俺たちは。だからこそ、完璧に近づくために成長する。進化する。有馬くんはもしかしたら、今まで少しずつ成長していたのが、何らかのことが切っ掛けに成長期みたいにぐいーんと成長したんだろうね」 「……さすが、監督。お見事の一言です」 「こりゃ、照れますな」  メイクを直してもらった有馬がまたこちらにやって来ると、「よし、次のシーンを撮影しよう」と監督が言って、スタッフたちがそれぞれ準備に取り掛かった。俺は2人に会釈をして、その場から離れた場所に移動すると、有馬を眺める。  やっぱり、詩乃の存在が大きく影響している。詩乃の存在が有馬を変えている。  俺は口角を上げると、「本番まで、3、2、1」とスタッフが言った声に耳を傾け、有馬の歌声に身をゆだねた。
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