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③
「おはようございます!」
「おはよう」
詩乃が明るい声で言うと、俺はバックミラーでシートベルトを付けたのを確認して、車を走らせる。アパートの前では高橋さんが手を振りながら、詩乃を見送っていて、窓越しに詩乃も手を振っていた。
「今日のスケジュールは、有馬を迎えに行った後、有馬が歌番組の生放送を午後に1本抱えているから、それまでは詩乃に時間を費やす。有馬の出番は夜の9時だけど、リハーサルがその前にあるから、有馬のリハーサルが終わった後、Latestの社長に会いに行く」
「了解です」
本当に声が澄んでいる。俺は朝でもこれほどの声量なら大丈夫だろうなと思いながら、バックミラーで静かに座る詩乃を眺めた。
「詩乃」
「はい」
「もしかしたら今日の有馬の生放送で、詩乃に興味を持った奴が詩乃に近づくかもしれない」
「興味を持った人……? 誰ですか?」
俺はしばらく口ごもっていると、それから「会ってからのお楽しみだ」と言って言葉を濁した。相手がsoraだということを決定事項ではないのに、言ってしまって無駄に期待させてしまうのはあまり得策ではないと考えたからだ。
俺たちは有馬の家に着くまで、しばらく静かにしていると、有馬の家の前までやって来た所で、詩乃が沈黙を破る。
「おっきい……」
そうか。先週は先に詩乃の家に寄ったから、有馬の家を見たことが無かったのか。
俺はバックミラー越しに詩乃の反応を見ながら、有馬にメールを打つ。すぐに既読が付き、『行きます~』と返信が返ってきた。ものの数分で有馬はやって来ると、扉を開けて、こちらも明るい声で「おはようございまーす」と言う。詩乃が「おはようございます!」と元気よく言って、俺は静かに「おはよう」と言った。
「いやー、何だか緊張するなぁ。甲斐さん以外の人が俺の仕事についてくるのって、今まで無かったからさ」
「Minamiちゃんの時は、私みたいな状況にならなかったんですか?」
「ああ、Minamiちゃんがインディーズデビューする前は、俺がまだ売れてなかった時だし、けっこう暇でさ」
「えっと……」
「俺が売れ始めたのは、大学3年生の時ね。だから21歳の時。俺とMinamiちゃんは3歳差だから、Minamiちゃんはまだ18歳だったんだよね。Minamiちゃんがインディーズデビューしたのも丁度その時だったから、すれ違いって言うの?」
「なるほど」
俺は前を見ながら2人の会話を聞いていると、昔のことを思い出す。あの時は本当に仕事が無くて、俺は毎日のように有馬の宣伝活動を行っていた。暑い中も寒い中も、色んな所に走り回っていたから、本当に大変だった。営業マンはこれを毎日やっているのかと思うと、溜息が出る。
「あ、そうそう。今日の歌番組、モネくんとsoraくんも出るみたいだからさ、後で紹介するよ」
「えっ、あのモネくんとsoraくんですか!?」
そこまで言って、詩乃が口を塞ぐと、「モネさんと、soraさんですね……」と言い直した。
「あはは、別にモネくんもsoraくんも怒らないと思うけどね。俺は有馬くんって呼んでほしい」
「えっ、そうなんですか?」
「うん、気軽に呼んで~って感じだよ。詩乃ちゃんも遠慮せずにそう呼んでね」
「……分かりました」
そう言うと、詩乃がホッとしたような顔をしている。何だか安心しているようだ。まぁ、いきなり今まで君付けで呼んでいた芸能人が、仕事仲間になってさん付けに変更するのは、高校生からしたらなかなか厳しいことだろう。
「あの、それにしても、目黒さんという方はどのような方なんですか?」
俺は信号が赤になるのを目視すると、ブレーキを踏み、ゆっくりと止まる。バックミラー越しに、有馬の引きつった顔が見えた。
「まぁ、それは、えっと……」
有馬がちらっと俺に視線を寄越し、俺は溜息を吐くと、バックミラー越しに2人と視線を合わせた。
「厳しい人だよ」
「厳しい……」
「まぁ、後は会ってからのお楽しみだな」
信号が青に変わると、俺はアクセルを踏み、車を発進させる。後ろで「会ってからのお楽しみ……?」と呟きながら困惑の色を出す詩乃が「有馬くん、これは一体……?」と有馬に助けを求める。
俺が言った意味を理解している有馬が苦笑を浮かべながら、「まぁ、会ってからのお楽しみだよ」と言った。それからあの時を思い出したのか、身震いをして、窓の外を眺めた。
目黒草介、彼と関わった人は皆こう言う。「鬼のプロデューサー」と。俺も有馬を連れて初めて会ったときは、その鬼っぷりに驚いたものだ。だが、そのお陰で今の有馬がいると行っても過言ではない。
まさに、デビュー前に通る試練ということだ。
きっと、詩乃に会ったら有馬の時と同じことが起こるのだろう。それを分かっていて有馬もああいう感じなのだ。俺はふーっと息を吐くと、今日のテレビ局の駐車場にたどり着いた。
既に駐車場には見慣れた車がいくつかある。と言っても、それらは全て守屋、沢渡、志賀のなのだが。
俺は志賀の車の隣に止めると、後ろで楽しそうに会話をする詩乃と有馬に「着いたぞ」と言う。扉を開けてアスファルトに足を付けた瞬間、詩乃の表情が一瞬にして変わった。見た目は他のビルとそう変わりない。だがテレビ局であることが雰囲気からして分かるその建物に、詩乃は口を開いて止まっていた。
「詩乃ちゃん?」
「……」
「おーい、詩乃ちゃーん」
「はいっ!?」
有馬が隣に行って肩を叩くと、やっと元の世界に戻ってくる。詩乃は「何ですか?」と有馬に言うと、有馬がくすくす笑って、「いや、詩乃ちゃんぼーっとしてたから」と返す。それから詩乃が恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「雰囲気に飲まれるなよ」
俺は一言だけ言うと、詩乃が顔つきを変えて「はい」と言う。
「行くぞ」
「はーい」
有馬がへらへらした声で詩乃と一緒に俺の後をついてきた。
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