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③
「おはようございます!」
「おはよう」
いつも通り元気で澄んだ声で言う詩乃がシートベルトを付けると、俺はアクセルを踏む。今日は午後に1本バラエティの撮影があり、1本歌番組の生放送がある。バラエティの方は動物に関するものらしい。有馬は動物が好きだから、かなり喜んでいた。
俺は車を走らせながら有馬の家の前まで来ると、もうすでに家の前で待っていた有馬が車に気づいて近づいてくる。バラエティやドラマなどの歌番組以外の撮影がある日はいつも俺が来る前に待っているのが当たり前だった。歌番組とスイッチを分けているのかは分からないが、有馬なりに何か考えがあるのだろう。
「おはようございまーす」
「おはようございます!」
「おはよう」
有馬が暢気な声で言うと、シートベルトを付けて、扉を閉める。俺はそれを確認してまた車を発進させると、スタジオへと向かった。
「どう? 作詞進んでる?」
「何とか。色々と話を聞いて、物語を作ってます」
「1曲書けたんでしょ?」
「はい」
「見せて」
「えっ」
「いいじゃーん、見せてよー」
有馬が詩乃に向かってニヤニヤしながら言うと、詩乃が恥ずかしそうに「有馬くんに見せられません……!」と言う。それを聞いて有馬が引き下がるわけもなく、「見せてよー」としつこく言った。ついに観念したのか、諦めムードを纏った詩乃が鞄から1枚の紙を渡す。どうやら詩乃は、アイデアはノートに書いて、紙に正式な歌詞を書くスタイルらしい。
有馬は詩乃から紙を受け取ると、満面の笑みで目を通し始める。そしてすぐに顔の色を変えると、「これ……」と呟いた。
「これ……本当に初めて書いた歌詞?」
「はい……」
有馬が驚いた顔をしてまた紙に視線を戻すと、一から読み直しているのか、上から下まで視線を巡らせていた。俺はまだ詩乃が書いた歌詞を見たことはないが、一体どんな内容が書かれているのだろう。聞いた所、「歪んだ愛」をテーマに書いていると聞いたが、一体どんな歌詞になるのかが気になってしょうがない。
「有馬くん……?」
詩乃がおずおずといった様子で有馬の名前を呼ぶと、有馬が放心状態になったような顔をして詩乃を見た。
「そんなに酷かった?」
「いや」
有馬が即答すると、「むしろ逆」と言った。その言葉に俺は敏感に反応すると、耳をよく澄ませる。
「これ、初めて書いたんだよね? 凄いよ、初めてのわりに、とかそういうことじゃなくて。純粋に凄いと思う。こんな歌詞、俺には書けない」
「えっ」
有馬が詩乃に紙を返すと、詩乃がそれを大事にクリアファイルに保管して鞄に仕舞う。
「これが世に出たら、詩乃ちゃんのこと誰もが知るアーティストになりそう」
「えっ、いやいやいや」
「お世辞じゃなくてガチで」
有馬が真顔で言うと、その雰囲気を悟ったのか詩乃が静かになって、「ありがとう……」と小さく呟いた。
一体どんな歌詞を書いたのだろうか。楽屋に行ったら見せてもらうとしよう。
***
「それでは本番まで5秒前、4、3、2」
スタッフが口で言わず手で1とマークを示すと、司会が元気な声でタイトルコールを始める。俺にとってもうすっかり慣れた現場だった。バラエティと歌番組は違う雰囲気を持っている。だからだろうか、俺が初めてバラエティの現場にやって来たときはかなり緊張したものだ。
「す、凄いですね……」
小声で詩乃が言うと、詩乃の顔は興奮で満ち溢れていた。有馬と初めて会った時の顔とよく似ている。なるほど、芸能人を目の当たりにして興奮しているのか。
毎日芸能人と接する立場としては、もうそのような興奮は無くなってしまったが、接点がない人にとっては芸能人と会えば興奮するのだろう。
「有馬くんは、動物好き?」
「はい、大好きです~!」
司会が有馬に話題を振ると、有馬がとびきりの笑顔で答える。司会が続けて「どんな動物が好きなの?」と聞くと「パンダですね」と言った声に観客や出演者が「可愛い~」と言った。
「有馬くんは、凄いですね」
「え?」
俺は詩乃に視線を移すと、詩乃が感慨深そうに会話のキャッチボールを投げる。
「アーティストなのに、バラエティにも出て、演技もしてる。役者がそういうことをするのはよく聞きますけど、アーティストでっていうのはなかなかいませんよね」
「まぁな」
俺は有馬を見ると、有馬がニッコリと笑みを浮かべていた。だが、長年有馬のマネージャーをしている俺にさえ、有馬の本性は全く見えない。
いや、全くといったら嘘になる。正直に言ったら、少しだけ見えている。
有馬はきっと「アイドル」の有馬ではなく、「アーティスト」の有馬として扱われることを望んでいる。歌一本で活動していきたいという本音も抱えているだろう。
それは前々から抱えていると思う。だから俺は昔「歌一本にするか?」と有馬に言ったことがある。
『大丈夫です』
それが有馬の回答だった。だから俺は勘違いをしていたのだろうと自分を疑った。だが、実際はそうじゃないのだろうというのが、最近有馬と会ってひしひしと感じている。
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