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「ねぇ、詩乃ー」 「ん?」  私は琴音ちゃんが料理を運ぶのを見て、パッと笑顔になると、食卓に並ぶところをじっと見た。今日の夕飯は麻婆豆腐のようだ。琴音ちゃんの得意料理の一つである。 「詩乃は、VMEに入るの?」 「んー、まだ分かんない」  私は「いただきます!」と言って大皿に盛られた麻婆豆腐をスプーンですくうと、小皿に盛り付ける。そしてそのまま別のスプーンで口に入れ、箸でお米をかき入れた。 「美味しい~!」 「良かった」  琴音ちゃんは現在大学3年生。高校生の私からしたら、随分と忙しそうだ。ただでさえ、来年は就職活動をしないといけないのに、レポートやら発表やらと毎日本当に忙しそうにしている。それなのに、間の時間でバイトしたり、私の世話をしたりしているのだから、本当に尊敬する。 「琴音ちゃんは、私に芸能界入ってほしい?」  琴音ちゃんが麻婆豆腐を口に運びながら、「んー」と言うと、麻婆豆腐を胃に流し込んで口を開く。 「それは私が決めることじゃないと思うけどな」  琴音ちゃんがお米を箸で運ぶと、また麻婆豆腐を口に入れ、幸せそうな顔をする。 「詩乃はどうしたいの?」 「んー……」  私は箸を置くと、琴音ちゃんがこちらをじっと見る。 「私はいまいち芸能界がどれくらい忙しいのとか全然分からないし、皆がどれくらい本気なのかも分からない。歌うことは好きだよ。中学ではバンド組んでたし。高校に入ってからは、お母さんとお父さんが死んじゃって、辞めちゃったけど。でも、それでも歌を辞めたわけじゃない。カラオケ大好きだし、歌番組は欠かさず観るし」  琴音ちゃんは箸とお椀を食卓に置くと、「それで?」と相槌を打った。 「入れるなら、このチャンス逃したくない。歌を仕事として、活動できるのは嬉しいし。でも、ただで、芸能界に入ってもいいのかなって」  私は視線を下に向けると、琴音ちゃんが「うーん」と唸る。 「このチャンス、逃したくないんでしょ? ならこんなチャンス滅多に無いんだから、入ればいいじゃん」  私は琴音ちゃんを見ると、琴音ちゃんがさも当然という顔で私を見ていた。言葉には、どことなく優しさがあって、すっと心に入ってくる。 「この世界にはさ、歌が好きで、好きでたまらなくて、有馬くんとかMinamiちゃんみたいなアーティストになりたい子がいっぱいいる。だから皆、コンテストがあれば応募するんだよ。でもコンテストに参加しても、落ちる子が沢山いる。チャンスを掴める子なんて、だよ。しかも、デビューしても全然売れなくて、事務所から契約切られたりする子もいる。そんな厳しい世界の中、ただコンビニでバイトしてる歌が好きな女子高生の詩乃を、甲斐さんが見つけてくれたんだよ? しかも有馬くんのマネージャーだし。こんな奇跡みたいなこと、1なんだからさ」  琴音ちゃんは私の両肩を掴むと、「詩乃」と私の名前を呼ぶ。真っすぐ見つめるその瞳に私は吸い込まれそうになりながら、生唾を呑み込んだ。 「。きっと、天国にいる詩乃のお母さんとお父さんもそう言うはずだよ」  そう言って琴音ちゃんは手を離し、麻婆豆腐を口に運ぶと、また幸せそうな顔をする。  私は近くに置いてあるお母さんとお父さんの写真を見ると、琴音ちゃんが言った言葉を2人ならそのままそっくり言うんだろうなと心の中で思った。  実際、お母さんとお父さんは琴音ちゃんみたいに明るくて、楽観的で、面倒見がいい人だった。だから、私も琴音ちゃんに声を掛けられた時にはつい安心してついていってしまったのだろう。警戒心は強い方の私でも、琴音ちゃんに警戒心を抱けなかった。 「ま、決めるのは詩乃だけど」  お米を頬張り、リスのように頬を膨らませると、「ふふっ」と笑みを零す。  琴音ちゃんは凄い。  大学3年生で忙しいはずなのに、まだ高校1年生の私を拾って、育ててくれているんだから。きっと、琴音ちゃんがいなかったら、周りから誰もいなくなった私は、きっとこの世界にはいなかったはずだ。  でも琴音ちゃんが私を拾ってくれたから、私は今こうして生きているし、学校に行って、バイトして、暖かい家に住めているのだ。 「琴音ちゃん」  私は覚悟を決めた声で琴音ちゃんを呼ぶと、琴音ちゃんがちらりと横目で私を見る。 「私、歌手になりたい」  そう言うと、琴音ちゃんが嬉しそうに私を見て、それから「それでこそ、詩乃だー!」と言って私に抱きつく。髪をわしゃわしゃされ、私はへらへら笑うと、「私、詩乃のファン第一号だからね」と強く言った。 「ありがとう、琴音ちゃん」 「いやー、私の可愛い詩乃が、表に出てしまうのは嫌だけど、でも有名になるのは嬉しい。頑張れよ、詩乃。応援してる」  琴音ちゃんが拳を前に突き出すと、私は「うん」と強く頷いて、琴音ちゃんの拳に自分の拳をこつんと当てた。 「よし、今夜は宴だー!」  琴音ちゃんは興奮気味に言うと、麻婆豆腐を口に頬張る。私もそれを見て、麻婆豆腐を口に運んだ。  後で甲斐さんに電話しないと。私は心の中で呟いて、ポケットに入れた甲斐さんの名刺を手触りで確認した。 「今日は食べまくるぞー!」  元気よく言う琴音ちゃんを隣に、小さな宴が始まった。  その日、奇跡に満ち溢れた一日が終わった。
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