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「名前は?」  沢渡がすぐさま名前を聞くと、俺は「叶詩乃」と答える。全員が作業を止め、俺をじっと見つめていた。 「社長には言ったんですか?」 「まだだ。今日言うつもりでいる」  沢渡が「どんな子ですか? 詳しく」と言い、隣にいた志賀が「写真は無いんですか?」と聞いてきた。守屋が「歌声は?」と食い気味に聞く。俺は「落ち着け」と言って、全員を宥めると、「写真も声もデータは持っていない」とはっきり言った。その言葉に全員が眉を顰める。 「無いんですか?」 「昨日、会ったばかりだし。本人には名刺は渡したけど、まだ返事は返ってきていないからな。まぁ、何が何でもOKは出させるけど」  俺はそう言うと、「どんな声を持っているんですか?」と沢渡が聞く。俺の返事に全員がごくりと生唾をのみ込みながら、見守った。 「とにかく声が澄んでいる」 「……それだけですか?」  沢渡が意外そうな顔で俺を見ると、「簡潔に言ったら」と俺が答える。その返答に、志賀が「え?」と驚いた声で言い、守屋が「ドッキリか何かですか?」と聞いてくる。全員が俺の言葉に信じられないといった反応を示した。それもそうだろう。有馬やMinami、モネにsoraを見つけて、デビューさせたのは俺だ。それで全員、今話題なアーティストだ。そんな俺が「デビューさせたい」と思っている子を見つけたのだ。それだけの理由でデビューさせたいと思ったことに、むしろといった反応を示すのも分かる。  だが、俺は有馬たちをであり、有馬たちが人気になったのは俺の力ではない。そこだけは理解してほしい。 「まぁ、お前らも聞けば分かるよ」 「甲斐さんが言うなら……」  守屋が未だに納得がいっていないといった表情を浮かべると、しばらく沈黙が起こる。部屋ではまたパソコンのキーボードを叩く音がぽつぽつと聞こえ始め、沈黙を食べているようだった。  それからしばらく天井を眺めたり、たまに動画投稿サイトで歌ってみた動画を上げている人たちの歌声を聴いたりしながら、時間を潰した。8時になったのを確認すると、Minamiを迎えに守屋が立ち上がり、それから5分後ぐらいに、沢渡がモネを迎えに立ち上がった。 「あれ、モネくん、今日歌番組の収録ですか?」 「今日はインタビューが3本午後に入ってて」 「ひー、大変ですね。行ってらっしゃい」  志賀がそう言うと、沢渡が「行ってきます」と言って、事務所を出る。相変わらず口元に笑みは無いが、仕事にそれだけ真面目だということが伝わってくる。 「沢渡さん、今日もクールですねー」 「俺は別にいいと思うけど」  俺はそう言って、パソコンの電源を落とす作業に入る。そろそろ俺も有馬を迎えに行かないといけない。俺はパソコンを閉じ立ち上がると、隣にいた志賀が「あれ、もう時間ですか?」と聞いてくる。 「ああ」  俺はそう答えて、荷物を持つと、後ろから志賀の「行ってらっしゃーい」の声が聞こえた。「行ってきます」と返し、すれ違った別のマネージャーたちに会釈をしながら、事務所を出る。車の鍵をポケットから取り出し、車のロックを解除した。  車に乗ると、電話がいつ来ても大丈夫のようにハンズフリーの携帯電話を耳に当てる。エンジンをつけ、パーキングからドライブにギアチェンジすると、アクセルを踏んで車が走り出した。  しばらく車を走らせながら、俺は有馬の曲を聴いていると、スマホが鳴り、俺の耳にもコール音が届く。俺は有馬の曲のボリュームを0にすると、「はい」と言って応答した。 『あ……朝早くにすみません』  その声ですぐに誰だか分かった。そして『叶詩乃です』と名乗った名前で確信した。電話越しながらも、その澄んだ声は輝きを失うことがなかった。 「いえ、大丈夫です」  俺は心の中で湧き上がる感情を抑えながら、冷静な声で言う。 『今、大丈夫ですか?』 「ええ」 『昨日の話なんですが』  俺は次に来る言葉に期待しながら、「はい」と答える。ウィンカーを表示し、右に曲がると、左側に有馬が住む高級マンションが見える。俺はその前でニュートラルにし、車を止めると時刻を確認する。時刻は8時45分だった。片手で有馬に「着いた」のメッセージを送ると、耳元で『私』と叶さんが言う声が聞こえた。 『私、です』  リンコンッとコミカルな音が鳴り、俺はスマホの通知を見ると、有馬から『今行きます~』とメッセージが来ている。俺はそんなの構わず、ガッツポーズをすると、「そうですか」となるべく冷静な声で言った。 「では、社長に紹介をしたいので、またどこかでお会いしたいのですが、いつ頃が宜しいでしょうか?」 『私、平日の日中以外なら、いつでも大丈夫です。日中は学校があるので』 「大学……ですか?」 『いえ、です』 「高校!?」  俺はハッとすると、後ろで扉が開く音がする。すると、マスクをつけた有馬が「おはようございまーす」と暢気な声で俺に挨拶した。俺は片手を上げて応答すると、「高校生なんですか?」と聞く。有馬が俺が電話していることを悟ったのか、静かに扉を閉めると、シートベルトを付けて静かにしていた。  俺はドライブにギアチェンジし、アクセルを踏むと車を発進させた。
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