明日晴れなくても(1)

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私はこんなものを見たかったんじゃない―― 一・夢で逢えたら  『世の中に寝るより楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起きて働く』  私はこの言葉をいつ、誰から、どうやって聞いたのかは覚えていない。けれど、この言葉はいつしか私の座右の銘となっていた。  どんなにおいしいものでも、食べているうちにお腹いっぱいになってしまう。いくら生クリームたっぷりのケーキが大好きでも四号サイズのホールケーキを毎日食べていたら、三日目くらいにはもうしばらくは見たくないと思う。  いつも金欠でピーピー言っている私に、今まで見た事もないような大金が転がり込んできたら、きっと狂喜乱舞して一ヶ月くらいは欲しいものを手当たり次第買いあさって散財するかもしれないが、そのうちにお金が減っていくことへの虚しさとこの大金を誰かが狙ってはいないだろうかと、ありもしない恐怖と人間不信に陥って精神崩壊してしまうかもしれない。  その点、睡眠はいくら寝ても寝過ぎることも飽きることもない。寝れば寝るだけ自分への鋭気となる。本当に何もないときは一日中布団に潜って二十時間くらい寝ることだってある。  よく寝過ぎて頭がボォーとするという話を聞くが、私に言わせればそれはまだ睡眠が足りないだけなんだと思う。  寝ているときが私の最も至福の時間であり、最もコストパフォーマンスの高い贅沢なのだ。  学校でも、数学の授業と昼休み直後の五時限目は私のスリーピングタイムとなっている。  数学の担当教師である赤羽から「お前が起きているところを見たことがない」と言われようと、素子から「ゆかりちゃんは本物の眠り姫だね!」と言われようとお構いなしに私は惰眠を貪る。  紀子からも「学校であれだけ寝てよく家でも眠れるよね」と感心されるが、私にとっては何てことはない。マラソン選手に「よく四〇キロも走れるね」と言っているようなものである。むしろ毎日夜更かしして四時間くらいしか眠れないと嘆く紀子が不憫でならない。  この日も夕食の後、お風呂に入ってパジャマに着替えてしばらくリビングでテレビを見ていると予定調和のように睡魔に襲われた。よろよろと部屋に入り、ベッドに横たわると、目を閉じて五秒もしないうちに深い眠りに就いた。  寝ると大抵夢を見る。が、朝起きるとほとんど忘れていて、どんな内容だったのかを覚えていることはまずない。  部屋中を駆け回るネコを私がひたすら追いかけてなかなか捕まらずに自分がバターになりかけたり、落ち葉の絨毯で寝ていたはずの自分がいつの間にか海底にいて、慌ててバタ足で泳いで命からがら陸に上がるといった、やたら支離滅裂な話が多いのだが、この時見た夢はちゃんと話の筋が通ったごく普通の日常的なもので、いつもよりも鮮明に記憶していた。  その夢は、夏休みのある日、エアコンのない自分の部屋の温度が体温を越えてしまい、たまらず家を出るところから始まった。  我が家には各部屋にエアコンが設置されている。いや、正確には私の部屋以外にはエアコンが設置されている。  リビングはみんなが集まるところなので真っ先に取り付けたのは理解できるが、美樹の部屋は両親の寝室よりも先にエアコンが付いたことに当時は納得がいかなかった。  勉強がはかどるように環境を整備して欲しいと美樹自ら直訴してゲットしたものだった。  常に学年トップスリーに君臨している彼女の学力は高価なエアコンと等価であると両親が認めた証だ。  ちなみに彼女の部屋にはなぜか空気清浄機と加湿器まで備わっている。  私の部屋にはタイマー機能が壊れた中古の扇風機があてがわれている。こないだお母さんが掃除をしている時に倒したせいで羽根の一枚がちょっと欠けているが、新調する予定はないそうだ。 「テストで百点取ったら、エアコン買ってあげてもいいわよ」  と、お母さんは涼しい顔で事もなげに言う。まるで小学生の子供におもちゃやお菓子を買ってあげるのと同じレベルでそんな条件を出すのは、秀才な次女とは違って私がテストで百点を取れる可能性がゼロに等しいことを見抜いているからだ。  蒸し暑い部屋から逃げ出した私は図書館に行くことを思いついた。あそこなら冷房浴び放題で暇潰しにもなるし、もともと夏休みの課題をこなすために図書館へはいずれ行かなくてはと思っていたところだったのでまさに一石三鳥だ。  我ながら妙案だと自画自賛しながら家を出た私は普段なら自転車で図書館へ向かうところ、この時はなぜか徒歩で向かっていた。  頭上からは焼けるような日差しを燦々と浴び、足許ではこれからバーベキューでも始まるのかと思うくらいの熱気がアスファルトからがこみ上げ、目の前には陽炎が揺らめく中、真夏の不快指数を五割ほど増す勢いで蝉の声が街中に鳴り響いていた。  住宅街から少し広い通りに出て、二つ目の信号を渡り、いくつかの交差点を何度か折れると、今まで見たことのない景色に出くわした。  それでも夢の中の私は躊躇なく目の前の道をずんずんと歩いていった。それはまるでこの先に図書館があることを確信しているかのようなしっかりとした足取りだった。  その根拠のない自信を証明するかのように突然目の前に大きな建物が現れ、私は無事に図書館にたどり着いたことを知った。だがその建物は私が何度か通って記憶していた図書館とは外見も雰囲気も全く違っていた。それでも私は何のためらいもなく建物の中に足を踏み入れた。  自動ドアを抜けた途端、冷えた空気が全身を包み込んだ。身体中の汗が乾き、ベタベタの肌が一瞬にしてサラサラになるのがわかった。砂漠の中のオアシスとはこういうのを言うのだろうか。  図書館に行かなければ解決できない課題とは何だったのかを全く思い出せずにいた私は、本を見ているうちに何か思い出すかもしれないと呑気に図書館の棚を端から順に回ることにした。  文学、哲学、歴史、政治、生物、天文、化学、美術、産業と、整然と書架に並んでいる背表紙を左から右に、右から左にと見て歩いた。そこで私はある一冊の本を見つけた。その本のタイトルははっきりと覚えてはいなかったが、それが課題をクリアするための重要な本なのだと直感した私はどうしてもその本を借りる必要があった。  私が所望する本は、二メートル以上はあると思われる書架の一番上の棚にあった。私は目一杯背伸びをしてみたものの、背表紙に触れることすらできなかった。  辺りを見回すと運良く近くに踏み台があったのでそれを拝借し、そこで背伸びをしてなんとか本に触れることができた。  ところが、である。  今度は本がきっちきちに詰められていて、簡単に引き抜くことができないという新たな問題にぶち当たった。  そこで素直にあきらめて他の本を探せば良かったのだが、その時の私はなぜかその本に執着していた。  本の天(あたま)に人差し指を引っかけ、指先に力を集中させた。まるで接着剤でも付いているんじゃないかと疑いたくなるくらい、本はびくともしなかった。  力を込めた指先がぷるぷる震え、これ以上力を入れたら指の骨が折れてしまう一歩手前で、はたと気が付いた。  そうだ。  こういうときこそ超能力を使えば良いんじゃないか。だって私は超能力者なんだから。  もっと頭を使えよと、自分自身にツッコミを入れながら今度は指先に神経を集中させてみた。すると私の指先に引っかかっていた本がほんの少しだけこちらに傾いたのがわかった。  この時とばかりにグイッと本を引き寄せると、それまでの摩擦抵抗がウソのようにするりと本が抜き取れた。  想定以上にスムーズに取り出せたせいで、勢い余った私の身体は後方に重心が移動してしまった。 「あっ」  本棚が私から離れていった。いや、私が本棚から離れていったというのが正しい。  後方に倒れながらも棚板にしがみつこうと必死に伸ばした私の左手は無情にも虚空を掴んだ。  背後には本棚と固い床が待ち受けていた。どちらもぶつけたら絶対に痛い。この後間違いなく訪れるであろう激痛を覚悟しながら、転倒せずに無事に着地するだけの反射神経と運動神経を持ち合わせていない自分を呪った。  倒れながら、ジーンズを履いてきて良かったと思った。これがミニスカート(持っていないけど)だったら、転倒するわパンツ丸見えだわともっと悲惨な状態になってしまうところだったので、不幸中の幸いと言えなくもないか。  身を固くして次の瞬間を覚悟していたのに、なかなかその瞬間はやってこなかった。  気が付くと私の身体は四五度傾いた状態で静止していた。 「?」  何かに支えられたわけでもなく、ましてや自分自身が瞬間的に超能力を発揮したという自覚もなかった。  ひょっとして自分の中に眠っていた運動神経がついに覚醒したのか、と自分の未知なる能力に感心していると、誰かに背中を押されて私の身体はゆっくりと起こされた。 「大丈夫?」  声のする方を向くと、一人の男性が心配そうな顔でこちらを見ていた。 「怪我はない?」  その男は同い年か少し年上のように見えた。 「あ、はい……」  私は柄にもなくしおらしく答えると、確かめるようにゆっくりと踏み台から降りた。 「ありがとうございます」  私が無事だというのがわかって、彼は相好を崩した。 「よかった。君が踏み台から落ちそうになったのを見て、とっさに超能力を使ってしまったんだ……あ、これ内緒だからね」  そう言って白い歯を見せる彼の顔を見て、胸の奥で何かがとくん、と弾んだような感覚がした。  ――と、そこで目が覚めた。  目を開けた先の天井を見つめていると、その白い天井にうっすらと彼の顔が浮かび上がった。  あまりにも現実感がありすぎて、夢だったことが信じられなかった。  ひょっとしたらこれは私の記憶の一部なんじゃないだろうか。今まで閉ざされていた過去の記憶を急に思い出しただけなんじゃないか。そんな風にさえ思わせるほど鮮明でリアルだった。  窓の外から雨の音が聞こえている。  このところ毎日のように降り続く梅雨の長雨のせいで、掛け布団の温もりが愛おしいほどに部屋は肌寒かった。もう何日かしたらうだるような暑い夏が本当にやって来るのか不安になった。  しばらく布団の中でもぞもぞとしていたが、いよいよこのままでは遅刻してしまうという頃になって観念した私はえいっ、と勢いをつけてベッドから飛び起きることにした。 (つづく)
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