明日晴れなくても(2)

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二・転校生来る 「ったく、まだ夏休み前だって言うのに夏休みの夢を見るなんて、どんだけ夏休みが待ち遠しいのよ」  今朝見た夢の話を聞いた蓮田紀子の第一声だった。 「いいなぁ、夏休みを先取りだね!」  宝積寺素子が羨ましそうにこちらを見た。 「ねぇ、夢の中の彼氏はどんな顔してたのよ?」  片岡ミエが興味津々な顔で尋ねた。 「うーん。それが……あんまり顔覚えていないんだ」 「何よ、それ」  ミエが露骨にガックリと肩を落とした。 「ゆかりの想像力じゃ、J系アイドルかイケメン俳優みたいな顔してたんじゃないの」  紀子に言われて、テレビでよく見るJ系アイドルや人気イケメン俳優の顔を順番に思い浮かべてみた。が、どのタレントからも相応の人物は該当しなかった。 「ゆかりにもとうとう発情期が来たってことかな」 「何よそれ」  私が唇を尖らせたところで予鈴が鳴った。素子とミエはそそくさと自分達の教室へと帰っていった。  自席で頬杖を突きながら、自分を助けてくれた男性の顔を確かめるようにもう一度夢の内容を脳内再生してみた。  私を抱き起こし、心配そうに見つめていた彼の顔は……霞がかかったようにボォーとしてよくわからなかった。ただ優しく微笑む口許と白い歯だけが強く印象に残っていた。  朝のSHRの本鈴が鳴るか鳴らないかギリギリのタイミングで、担任の赤羽が教室に入ってきた。  赤羽は高校一年の時からずっと私の担任だった。私がエスパーとして覚醒し始めたばかりの頃、交通事故に遭った彼をヒーリングで治癒しようとして逆に体力を奪い、一時危篤状態にまでに陥らせてしまった。そんな窮地を時間遡行という大技で彼の交通事故を未然に防ぐことができた。彼にとって私はいわば加害者であり、命の恩人でもあるわけだ。  浅からぬ因縁を感じながら赤羽を見ていると、いつもと様子が違うことに気が付いた。  赤羽の後ろからもう一人、細身で長身の女子生徒が教室に入ってきた。  長い黒髪をなびかせて彼女が教壇に上がると、クラスの男子全員の視線は彼女に一点集中した。  赤羽に促されて、黒板に少し右上がりのクセのある字体で自分の名前を書き始めた。  教室内にカツカツとチョークを走らせる音だけが聞こえていた。  名前を書き終え、チョークを置くと、またクラスメートの方に向き直った。 「西那須野舞依(まい)と言います。二組の愛依(あい)とは双子の姉妹です。顔も性格もあまり似ていないとよく言われますが、姉共々みなさんと仲良くして頂ければ嬉しいです」  ルックスから想像していたよりも少し低い声で話す彼女は緊張しているのか少しうつむき加減で、作り笑いを浮かべることもなかった。 「じゃ、取り敢えずあそこの席に座って」  いつの間に用意しておいたのか、赤羽は教室の一番奥にある新しい机と椅子を指差した。  彼女が真っ直ぐ前を向いて歩き出すと、クラスのみんなは横目で彼女の姿を追った。  彼女がちらっと私の方を見た。一瞬目が合った私はドキッとして、頬杖を突いていた手をほどいて背筋を伸ばした。  すると、耳許で彼女の声がした。 「あなた、エスパーよね」  私はびっくりして彼女の方を振り返った。彼女は教壇に上がっていたときと変わらない顔で自分の席に座っていた。  恐れ多くも自分が超能力者だと言うことは自覚してはいる。自分以外に超能力者がいることも重々承知だ。  まだ素子達には内緒にしているが、紀子は最近になって超能力が開花し始めたし、世間では『サイキック・マジシャン』として名を馳せている藤井知洋はトランプを瞬間移動させたり分厚いガラスにカードを貫通させたりしているが、それは超能力を駆使してあたかもマジックであるかのように見せているだけに過ぎない。  自分の周りだけでもそんな状態だから、例え転校生が超能力者だったとしても、その存在を驚いたりはしない。  彼女が初対面の私をちらりと一見しただけで私を超能力者だと見抜いてテレパシーで話しかけてきたこと自体に驚いたのだった。  超能力者というのは超能力者にしか見えないオーラや独特の匂いみたいなものを感じているのだろうか。だとしたら、それを感じることのできない私はエセ超能力者と言うことなのか。  私は赤羽の方に顔を向けていかにも彼の話を聞いている風を装って、彼女に話しかけた。 「は、はじめまして」  すると今度は、ふふふ、と笑う彼女の声がした。 「よろしくね。えっと……」 「白岡ゆかり」 「エスパー同士仲良くしましょう。白岡さん」  恐る恐る後ろを振り向くと、彼女と視線が合った。そして彼女はすぐに前を向いて赤羽の話に耳を傾けた。  私は前に向き直ると、紀子に向かってテレパシーで話しかけてみた。が、紀子からは何の反応もなかった。紀子とはお互いに何度かテレパシーでの〝交信〟を試みているが、今まで一度も成功したことがなかった。 「ゆかりちゃーん、紀子ちゃーん!」  一限目の休み時間、いつものように素子とミエが教室にやってきた。いつもと違うのは素子が小柄で大人しそうな女子生徒と手を繋いでいることだった。 「今日から来た転校生さんだよ~!」  捕まえた獲物を飼い主に自慢気に見せる猫のように目を爛々と輝かせながら、素子がはにかむ少女を私達に紹介した。 「ねぇ、舞依ちゃんってどこ?」  キョロキョロと教室内を見渡す素子に、腕を掴まれたままの少女がそっと指差した。 「あ、あそこ……」  彼女の細い声は二メートルほど離れた私の耳にやっと届くくらい小さかった。  素子は彼女の手を引っ張りながら小走りで舞依の席へ向かった。 「こんにちは! 舞依ちゃん!」  嬉しそうに手を振る素子を舞依は少し驚いた顔で見返した。 「はじめまして。愛依ちゃんのお友達のミーちゃんです!」 「ミー?」  私は耳を疑った。素子のニックネームがミーだったなんて今で一度も聞いたことがないし、ましてや本名とも思えない。ひょっとしてミドルネームなのか? 「愛依ちゃんと舞依ちゃんと三人揃って『アイ・マイ・ミー』だよ!」  愛依と舞依の目が点になっていた。  なんだ、素子はそれが言いたかっただけか。 「こらこら、西那須野さんがドン引きしてるじゃない」  見かねた紀子がはしゃぐ素子の肩を叩いて注意した。 「だって、新しいお友達ができて嬉しいんだも~ん」 「西那須野さんはまだ素子をお友達だとは思ってないかもよ」 「そんなことないよね! 愛依ちゃんとはもうお友達だし、舞依ちゃんともたった今お友達になったもんね!」  どこまでもポジティブな素子に舞依も苦笑いするしかなかった。 「白岡さん、助けて」  舞依が困ったような顔で私の方を見た。彼女からのテレパシーを受けて、私も腰を上げた。 「大丈夫。素子は悪い子じゃないわ。お友達になってくれたら私達も嬉しい」  テレパシーで彼女に話しかけた。 「本当に?」  私は黙ってうなずいた。 「よ、よろしくね……素子さん」 「ミーちゃんでいいよ! 舞依ちゃん!」  小躍りする素子に圧倒されている愛依と舞依を見比べながら、確かに舞依の言うとおり双子だけど顔も性格も全然似ていないと思った。  この日からランチタイムは私と紀子と素子、ミエのいつもの四人に愛依と舞依も加わって一段と賑やかになった。 「この塩バターパンは、近年まれに見るヒット商品だね!」  愛依と舞依の二人と一緒に購買から帰ってきた素子は、最近マイブームになっている塩バターパンをおいしそうに頬張りながら満足げに言った。  愛依は卵サンドをほんのちょっとずつかじってはヨーグルトドリンクで流し込んでいた。素子の一口分と彼女の十口分がほぼ同じくらいの量だ。 「ねぇ、舞依ちゃん。チョココルネはどっちが頭でしょーか?」  チョココルネを口にしようとした舞依に素子が尋ねた。  チョコの見えている方と先っぽとを見比べながら、舞依が出した答えは「チョコの見えている方」だった。 「えーっ、先っぽが細くなっている方が頭じゃないの?」  紀子がすかさず反論した。 「だって、チョコの方がお尻だったらイヤじゃない? なんか下品そうで」 「……」  舞依のこの言葉に紀子と素子はしばらく黙り込んだ後、大いに納得したようにうんうんと首を縦に振った。  二人の間で長きに渡ってくすぶっていた『チョココルネどっちが頭か』論争もこうしてようやく終止符が打たれることとなった。  舞依はあまり相手の顔色を見て言葉を選んだり態度を変えるようなことはしないタイプなので、他人からはクールだとかマイペースだとか思われがちだ。私も最初の頃はそう思っていた。  ところが、ある日の休み時間に彼女の取った行動を見て彼女への印象が変わった。  その日、黒板の前で日直の北本さんが悪戦苦闘していた。  日直は前の授業で書かれた黒板を休み時間のうちに綺麗にしなければいけないのだが、クラスで一番背の低い彼女は黒板の一番上まで手が届かず、黒板消しを手にはめたままどうにかして教師が書き残したチョークの跡を消そうとヒョコヒョコとジャンプを繰り返していた。  そこへ舞依が近付いてきて、彼女の代わりに黒板の文字を消してあげていた。 「どうもありがとう!」  とお礼を言う北本さんに対して、彼女はぎこちなく首を曲げて応えると自分の席に戻っていった。  また、ある日の英語の授業では私も彼女に助けてもらったことがあった。 「では、白岡」  英語教師の池袋が私の名前を呼んだ。  朝から降り続く雨模様をぼんやりと眺めていた私は、不意に指されて慌てて立ち上がった。 「窓の外を眺めているところを悪いな。このカッコの中に入る単語を答えてくれるか?」  柔和な顔で池袋が指差す黒板には、〝As a class, ( ) have been around for more than 100 million years.〟と書いてあった。 「教科書を見れば答えが書いてあるんだが、これはやさしい問題だから教科書を見ないで答えてみようか」  窓の外の雨に気を取られていた私は一体何ページ目のどの辺ををやっているのかすらわからず、一応考えている振りをしながら黒板に書かれたカッコを見つめてはいたものの、当然答えらしきものなど浮かんで来るはずもなく、その場に立ち尽くしていた。 「あのぅ……えっと……」  しばし教室に沈黙の時間が流れた。  すると、私の耳許で舞依の声がした。 「ちょっと待って。そこはね……」  彼女は教科書を見て答えを教えようとしてくれているようだ。 「あ、あったわ。えっと、ビルドス、かな? ビールズ? ビァードス?」  どうやら答えにたどり着いたものの、その単語の読み方がわからないらしい。 「ん? 白岡、どうした?」  池袋からの『早く答えろよ』オーラをひしひしと感じた私は、取り敢えず当てずっぽうで答えを口にしてみた。 「ビァードス」  池袋の右肩がかくんと落ちた。と同時に教室のあちこちから失笑が漏れた。 「ずいぶんと訛りが強いな。うん、バーズだな」  そう言って池袋はカッコの中に〝birds〟と書き込んだ。 「よし、座っていいぞ」  私は何事もなかったように、静かに腰を下ろした。 「白岡さん、ごめんね。単語が読めなかったわ」 「ううん、気にしないで。答えられなかった私が悪いんだから」 「でも、これでもうbirdって単語は完璧に覚えたわ」 「ふふっ。そうね」  それ以来、舞依とはちょくちょく授業中に会話をするようになった。話しかけてくるのはもっぱら舞依からで、本人が退屈にしているときか眠くて落ちそうなとき、もしくはその逆になぜかテンションの高いときに話しかけてくることが多い。  二人での会話から出た結論として、赤羽の授業は超眠くなる、ということがお互いの共通認識として確認することができた。  それと、二人の学力がほとんど変わらないという新たな発見もあった。実力拮抗、というと聞こえは良いが、要はどんぐりの背比べ、目くそ鼻くその超低空飛行だということが七月の期末テストで明らかになった。 「白岡と西那須野の点を足して倍にしても百点にならない」  と赤羽が答案を返しながらぼやいた。  そんな嫌味を言われても私も舞依も全く気にすることはなかった。 「もうちょっとは気にしなよ」  と紀子に小言を言われても、解らないものは解らないのだから仕方がない。  陰鬱な期末テストが終わるのに合わせるかのように、ひと月近く続いた梅雨もようやく明けて、あとは夏休みが来るのを待つだけとなった。  梅雨明け初日は、それまでの梅雨寒がウソだったのではないかと思うほど朝から夏日を超える猛暑に見舞われた。 「やっぱ、夏は暑くないとね」  何日か振りに見る太陽を仰ぎながら紀子が気持ちよさそうに言った。 「舞依ちゃんは日焼けを気にする方?」  体操着姿の紀子がすぐ後ろに並んでいた舞依に声をかけた。 「全然」  この日の体育は久し振りに校庭でおこなわれた。このところずっと体育館だったが、やはり晴天の下で身体を動かすのは開放感があって気持ちが良い。  最近では日焼けを気にして体育の授業前に日焼け止めを塗ったり、暑いのを我慢して敢えて長袖長ズボンでいる生徒も多い中、紀子と舞依の二人は日焼け止めも塗らずに半袖短パンで健康的に肌を露出している。  かく言う私も「少し日焼けするくらいちゃんと肌を太陽に当てないと丈夫にならない」と、小さい頃からのお母さんからの言いつけをちゃんと守って、夏場はできるだけ半袖を着るようにしている。そのおかげか、運動神経に反比例して滅多に風邪など引かない丈夫な身体に育った。昨年の冬にクラスでインフルエンザが流行したときでも私と紀子は毎日元気に登校していた。  ピッ、と小気味よい笛の音と同時に、生徒が順番に高跳びのバー目指して駆け出していく。  紀子が綺麗な弧を描いてバーを越え、スポンジのマットに身体を埋めると、舞依も細い身体をしならせて楽々とクリアしていった。  みんなが習ったばかりの背面跳びを華麗に成功させていく中、私はどうしても背中からジャンプするという体勢を取ることができずに、竹製のバーに豪快なヒップドロップをお見舞いしてしまっていた。 「白岡、バーを気にするな。バーの手前で思いっきり真上にジャンプするつもりで跳んでみろ」  体育教師の大宮のアドバイスを背中で聞きながら、また列の中に混じった。 「自分ちのベッドで寝る時みたいなイメージじゃない?」  最初は紀子の言葉の意味がわからなかったが、頭の中でイメージをしていくうちに何となく気が付くことがあった。  それは私が中一だった頃、ゴールデンウィークに家族で旅行に行った時だった。  私達の泊まったホテルのベッドは一人用がセミダブルほどのサイズで、自分の部屋のよりも二回り以上も大きなベッドに私はことのほか興奮した。嬉しさのあまりそのふかふかのベッドに思わず身を投げ出した。  妹の美樹に「ベッドくらいではしゃいじゃって、みっともない」と冷めた目で蔑まされようと全く気にすることなく、ベッドの上で文字通り大の字になれたことが何よりも最高に気持ち良かった。  その時の、無邪気な気持ちで跳べばいいってことか?  自分の番が回ってきたときに私はバーの先にあの時のふかふかベッドがあるとイメージして駆け出した。  助走をつけて、軽く膝を曲げ、バーの手前で大きく腕を振り、そのままバンザイの格好でジャンプをして、そして背中から落ちていった。  ズボッ。  走り高跳びのマットは確かに柔らかかったが、やけにほこり臭くてあの時ベッドにダイブしたときのような幸福感にはほど遠かった。  遠くの方で、オォーッという歓声がした。  見ると、バーは何事もなかったかのようにその場に留まっていた。 「よく跳べたな。綺麗なフォームだったぞ」  ゴロゴロと横回転をしながらマットを降りる私に大宮が声をかけた。 「凄いじゃん!」  紀子だけではなく、他の女の子までもが私を拍手で出迎えてくれた。 「ま、一メートル二十センチだから、ベビーロールでもあや跳びでも飛べるとは思うけどね」  跳べないと思っていた高さを見事に越えることができた高揚感からか、紀子の皮肉も全く気にならなかった。  バーの高さが五センチ、十センチと徐々に上がっていくとクリアしていく生徒の数も減り、次第に試技をする生徒よりも見学をしている生徒の方が多くなっていった。 「それじゃ、時間もないのでこれが最後だ」  バーの高さを一メートル六十センチに設定し終えた大宮が時計を見ながら言った。  最後の試技に残ったのは、陸上部の田端さんとバレー部の上中里さん、そして舞依の三人だった。 「田端さんは走り高跳びが専門だもんね。絶対有利だわ」 「いや、逆にそれがプレッシャーになって固くなっちゃうかもよ」 「上中里さんは一番背が高いし、ジャンプにも迫力があるよね」  周囲のギャラリー達が無責任にそれぞれを批評し合っていた。 「舞依ちゃん、スポーツとかやってたのかな? あんましそんな風には見えなかったけど」  私の隣にいた紀子がぼそっと呟いた。ちなみに紀子の最終成績は一メートル四十センチ。私は一メートル二十センチだった。 「田端さんの自己最高って、一メートル七十センチだっけ?」 「確か、七十五だったと思う」 「どっちにしても、この高さを跳べたら県代表レベルじゃない?」  バーの高さは私の身長を優に超えていた。この高さを跳べる人なんてもはや超人としか言いようがない。  最初の笛で上中里さんが走り出した。彼女は他の二人とは違って、バーの左側から助走を始めた。そしてバーの手前でわずかに膝を折り、反動を付けて思いっきり真上に跳んだ。  とても力強いフォームだったが、わずかに高さが足りずに彼女のお尻がバーに引っかかってしまった。ガタンと大きな音を立ててバーが落ちると、周囲からは溜息が漏れた。 「やっぱ、百六十は高いわ」  彼女は苦笑いをしながら白い歯を見せた。  次は舞依の番だ。 「舞依ちゃん、頑張って」  私と紀子が声をかけた。舞依はこちらを振り返り微かに笑って見せた。  舞依は軽やかなストライドで助走を始め、バーの手前で身体を捻りながらジャンプした。頭、肩、背中とバーを越えたものの最後の最後で足がバーに引っかかってしまった。  バーが小さく弾むのを見て、私は思わず「あっ」と声を出してしまった。  しかし、バーは落ちなかった。いや、落ちかけたバーがまるで磁石に引き寄せられた鉄の棒のようにピタッと元の位置に戻った……ように見えた。  それはほんの一瞬の出来事だったので、みんなの目にははっきりとはわからなかったかもしれないが、少なくとも私の目にはそう見えた。 「わーっ!」 「すごーい!」  一斉に歓声と拍手が沸き起こった。  起き上がった舞依はバーが留まってたのを確かめてから小さく拳を握った。 「舞依ちゃん、凄いよ!」  戻ってきた舞依を紀子と私がハイタッチで出迎えた。 「まぐれまぐれ。跳べて良かったわ」  そう言って笑顔を見せた舞依は田端さんの方をじっと見つめた。視線の先にいた彼女はポーカーフェイスで直立していた。  この日大宮が吹く最後の笛に反応するように田端さんがスタートした。大きくゆったりとした助走だった。  バーの手前でジャンプした彼女は、飛び上がってから空中で更にグンッ、ともう一度伸び上がったように見えた。それは跳ぶと言うよりも空を舞っているという表現が似つかわしかった。  私は陸上の知識など全く持ち合わせてはいないが彼女のフォームを見て、以前テレビで見たオリンピック選手が同じように跳んでいたのを思い出した。  背中とバーの間が十センチは離れていただろうか。かなり余裕を持ってバーを越えていく彼女の跳躍は誰が見ても完璧だとわかった。  背中からマットに沈む彼女へみんなが拍手を送ろうとした、その時だった。  それまでピクリともしていなかったバーの片方が、ゆっくりとずれた。  カタン、と乾いた音を立ててバーが落ちた。その瞬間、拍手は悲鳴に変わった。 「うっそー!?」 「マジ? 信じらんない!」  一番驚いた顔をしていたのは当の田端さんだった。立ち上がった彼女は首を傾げ、悔しそうな顔で呆然と足許のバーを見つめていた。 「俺も跳んだと思ったけどな。最後かかとが当たったか?」  大宮が彼女に同情するように声をかけた。  お昼休みは舞依の大活躍が話の中心となった。 「舞依ちゃんのハイジャンプ、カッコ良かったわよ!」 「あ~ん、私も見たかったなぁ~! どーしてスマホでムービー撮ってくれなかったの!」 「授業中なんだからできるわけないでしょ」  無理な注文を出す素子にミエがすかさずツッコミを入れた。 「舞依ちゃん、陸上部からお誘いが来るかもしれないね!」 「ダメダメ。私根性なしだから、キツい練習なんか耐えられないわ」  舞依はブンブンと手を振って否定した。 「じゃあ、頑張った舞依ちゃんにご褒美!」  と言って、素子はお弁当入れの奥からラップにくるんだ球状の物体を舞依に差し出した。 「何これ?」 「クラップフェンって、ドイツのお菓子だよ。今、これにハマってるんだ~!」  ドーナッツのような揚げパンのようなそのお菓子は、ドイツではポピュラーな食べ物なんだそうだ。 「ママに作ってもらったんだ。みんなにもあげるね!」  素子がみんなにクラップフェンとやらを配り始めた。 「シナモンをたっぷりかけたのがサイコーにおいしいんだよ!」  そう言って自分の握りこぶしほどもあるクラップフェンをおいしそうに頬張った。 「本当においしいからみんな食べてみて!」  そう言われて紀子が付き合いで一口食べてみた。 「うん、こりゃあおいしいね。でもお昼食べたばかりだから、ちょっとキツいなぁ。後でゆっくり味わうことにするわ」  そう言いながら机の引き出しにクラップフェンをしまった。 「私も後で食べるわね」  ミエも愛依もうんうんと大袈裟にうなずきながら、手の中で持て余していた。  突然、舞依が席を立った。 「ごめん、ちょっと」  と言い残して教室を出て行った。  席を立った瞬間の彼女は何となく顔色が優れないようにも見えた。  朝コンビニで買ったヨーグルトを食べながら彼女の容体を気にしつつ、午前中の体育の授業での出来事を思い出していた。  二度の不自然なバーの動きに違和感を覚えていた私はいつまでも胸の奥がモヤモヤしていた。  あまり考えたくはないが、もしかして……。 「ゆかり! スカート!」  急に紀子が大声を上げて私を指差した。 「ヨーグルトがこぼれてるよ!」  彼女の言葉にハッとなって下を向くと、スプーンからヨーグルトがこぼれて制服のスカートの上にビチャッと白いシミを作っていた。  隣にいたミエが電光石火の早業でポケットティッシュを取り出すとスカートに手を伸ばし、ヨーグルトを拭い取ってくれた。 「何やってんの! 早くトイレに行って洗ってきな!」  紀子に促されて私は慌ててトイレに駆け込んだ。  洗面所の水道でハンカチを濡らすと、こういうときはゴシゴシと擦ってはいけないというお母さんからの言いつけをとっさに思い出して、履いたままのスカートにポンポンと上から叩いてシミ抜きをした。 「あーあ、やっちゃった」  ある程度シミは取れたものの、完全に消えるまでには至らなかった。どうやらクリーニングに出す羽目になりそうだ。  嘆息している私の目の端に、人影が見えた。慌てていた私はその時初めて奥の洗面台に誰かがいることに気付いた。  その彼女は洗面台の前に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだままだった。  声をかけるのもためらってしまうほど辛そうな舞依の横顔は苦痛に歪んでいた。 「大丈夫?」  恐る恐る声をかけた。  私の声に気付いた舞依はこめかみを押さえながらゆっくりと立ち上がった。 「うん……私、頭痛持ちなんだ……もう大丈夫」  大きく息を吐いた彼女の顔色を見て、とても大丈夫そうには見えなかった。 「白岡さんはどうしたの?」 「スカートにヨーグルトこぼしちゃった」 「ドジねぇ」  近付く彼女に、私の中の言葉が無意識に漏れた。いや、正確には心の奥の声が微かなノイズとなって外にこぼれてしまったと言うべきか。 「走り高跳びの時に超能力使ったでしょ」  私のノイズをキャッチした彼女は一瞬ハッとした顔をしてから、フッと息を漏らした。 「白岡さんにはばれてたか」  やっぱりそうだったんだ。  最初、彼女が見事にバーを越えたときは正直に嬉しかった。凄いと思った。けれど、その後で田端さんが跳んだときにバーが不自然な落ち方をしたのを見て、その喜びが一気に吹き飛んでしまった。なんだかとても残念な気持ちになった。  もしもあの時、田端さんが一メートル六十センチをクリアし、舞依が失敗したとしても、私の彼女に対する称賛の気持ちは揺らぐことはなかった。  それだけに自身の立派な記録に自ら泥を塗ってしまったことがとても残念で仕方なかった。 「それって……ズルなんじゃないかな」  私の言葉を聞いた彼女の表情が一変した。 「はぁ!? どこがズルいのよ?」 「だって、超能力を使って……」 「じゃあ、勉強できる子はどうなの? スポーツのできる子はどうなのよ? みんな自分の持っている能力を使って良い点取ったり試合で活躍したりしてるんじゃない。それと私が超能力を使うのってどう違うのよ!」  舞依は一気にまくし立てると、怖い顔で私を睨んだ。  彼女の取った行動には何の正当性も感じられなかった。バレなければカンニングしてもいい、審判に気付かれなければ反則をしてもいい、という理屈と同じだと思ったからだ。  百歩譲って、自分が跳んだときにバーが落ちないようにしたのは許せても、田端さんがクリアしたはずのバーを超能力で落っことしたのはフェアじゃない。  だが、彼女に反論されて、それを口に出すだけの勇気が私にはなかった。  私が頭の中で言葉を探していると、彼女は私の横を通り過ぎてトイレから出て行ってしまった。  私はしばらく黙ったまま、彼女が使っていた洗面台に残された銀色の包装をしばらくぼんやりと見つめてから、そっと拾い上げ、近くにあったごみ箱へ捨てた。
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