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変化
パーカーを脱いで椅子にかけてから、腰を下ろすまでの短い間、湯川は打ち合わせスペースにいる瀬戸内の姿を捉えた。
今日はスーツではないが、シャツのストライプの線は歪むことなく真っ直ぐに、下に向かってのびている。
ぴったりと留められた手首のボタンや襟元を見て、暑くないのだろうかと思った。
まだ4月半ばではあるが、今日は長袖だと暑いぐらいの陽気だ。
社内もまだ充分に冷房が効いているわけではないし、嵌め殺し窓からは換気もできないため、湯川はさっそくTシャツ一枚になって作業している。
行き交う人にたびたび突っ込まれるが、暑さのせいで効率が落ちるよりはましだった。
湯川が椅子に座ったタイミングで、今度は打ち合わせを終えた瀬戸内が立ち上がった。
彼は書類を小脇に抱えながらこちらを見て——ほんの微かな笑みを浮かべた。
湯川はわざと唇を尖らせ、憮然とした表情を繕うことで応じると、モニターに向き合った。
——社内での瀬戸内の態度は以前と変わらなかったが、目の合う頻度が増えたように思う。
そして、合うと柔らかく笑うようになった。
それに対して、湯川はまだうまく笑みを返せないでいる。
完全な恋愛モードになかなか切り替わらないのは、ふたりの仲が未だにはっきりしていないせいだろう。
しかし、彼が明日泊まりに来たら、きっと何らかの形で着地するはずだ。
「もうTシャツ着てるんですか?」
その時、背後から声をかけられた。
スリープ状態のモニター越しにネクタイらしきものが見えて、振り返る。
見覚えのあるドット柄をたどっていくと——案の定、大智だった。
彼の突然の訪問に、湯川はやや怯みかけたが、なんとか平静を装うと、椅子に背をもたれた。
彼がデスクまでやってくるのは、別れて以来初めてだから、多少は動揺するのも仕方がないだろう。
「わるいかよ。暑いんだよー」
第一声は、普通に出せていただろうか。
発した後で、いちいち気になった。
「悪くないですけど……。もうTシャツ着てるから、思わず声かけちゃいました」
「なんだそりゃ」
湯川がTシャツ姿でウロウロしていると、大智からはよく「旅行帰りに空港にいる人みたい」などと揶揄われたものだ。
別れてからはめっきり交流が途絶えていたので、彼がこうしてこちらの席まで来て、軽い冗談を叩いてくれる——そんな普通のことが、なんだか嬉しかった。
そして、いざ話してみると、戸惑いや未練などといったものが込み上げてくることは、もうなかった。
「お前こそ、また頭の後ろに寝癖ついてんぞ」
今朝から気づいていたことを指摘すると、大智は慌てて後頭部を押さえた。
「えっ嘘! 本当だ」
彼は入社当初、よく後頭部の髪を跳ねさせて出社していた。
最近では少なくなっていたが、今朝は久々に、大胆な寝癖を発見したのだった。
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