ぬかるみ

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ぬかるみ

ひととおりの作業を終えたころには、もう10時を回っていた。 湯川は伸びをすると、その流れで肩を回した。 ひと段落したときに軽いストレッチをするのは、もはや儀式のようなものだ。 こちらが腕を伸ばしたり腰を捻ったりしているのが視界に入っているだろうが、武山は見向きもせずに作業に没頭している。 今はみんな繁忙期らしく、まだ部署内の人間はほとんど残っていた。 ——このぐらい片付けておけば、明日は早く上がれるだろう。 店などは特に予約していないから、たまには買い物をしてから家で料理をしてもいい。 無意識に口笛を吹いてしまい、武山が怪訝な表情を浮かべたので、慌ててやめた。 パソコンの電源を落とすと、山積みになった書類にふと目が留まった。 ゲラやら資料のカタログなどの中から、見覚えのない何かがはみ出している。 誰かが置いたのだろうか。 無意識に何でもかんでも上に積んでしまうから、気づかなかった。 抜き取ると、昨日納品したばかりの広告を出力したものだった。よく見ると中央に付箋が貼られていて——湯川の中を唐突な焦りが募った。 仕上げたデータは最後に部長チェックを経て納品される。 なにかあった場合は付箋などで赤字を入れられることがあるのだ。 今回は赤は入っていなかったと記憶していたが、まさかその赤字に気付かずに、先方に納品していたのだろうか。 付箋の文字を慌てて追うと———今後は、湯川の中をまったく別の種の動揺が襲った。 付箋にはただひと言 「このデザイン、すごくいいね!」 という激励の言葉が添えてある。 部長の字ではない。 しかし、たしかに見たことのある文字だった。
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