ぬかるみ

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「武山さん、机にこれ置いたの誰か知ってる?」 よほど緊張感のある声だったのだろうか。 滅多なことでは反応しない武山がすぐに振り向いた。 なにか重大なミスが発覚したのだと思ったらしい。付箋に目を落とした彼女は、安堵したようにひとつ息を吐いた。 「ああ、それ? 呉上さんだよ」 にぶい衝撃が、湯川の身体中に走った。 「その紙が湯川君の机に置いたままになってて、たまたま通りかかった呉上さんが見てたんだよね。で、付箋貼ったんじゃない。ってか、字で呉上さんってわかんない? 有名だよ。筆跡に特徴あるから。二部の島津さんがさー、呉上フォント作りたいって言ってて……」 話の途中で立ち上がると、バックパックを掴んだ。 心臓が激しく音を立てる。 知ってる。あの特徴的な字はよく覚えている。 また木曜日に———— 瀬戸内の自宅で目にしたメモには、たしかにそう書いてあった。 そのまま、デスク脇を抜けて、総務人事部まで直行する。 珍しく残業をしていた田野倉が、驚いたように顔を上げた。 「……瀬戸内さんは?」 「だいぶ前に帰りましたけど。木曜日はいつも早いですから」 彼はなぜ、きょとんとしているのだろう。 湯川は拳を握り締めながら、手のひらが滑るのを感じた。 「お前じゃなかったのかよ」 「なにがですか?」 「木曜日に瀬戸内さんの家に行ってたの——」 すると、田野倉はやや寂しげに、しかしこちらが焦っているのを半ば楽しむように、口の中で言葉を転がした。 「……俺は、家に招かれたことなんてありませんよ」 田野倉からそのひと言が吐き出された時、湯川はすでに踵を返していた。
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