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「瀬戸内さんは、俺にどうしてほしいんですか」
湯川は指先を握り返しながら言った。
「わからない……。湯川君を手に入れることも、失うことも、どっちもこわい」
それはまぎれもなく本音だろう。
おそらく互いにわかっていないのだ。
そして、一歩踏み出そうとするたびに、臆病な思いが先行してしまう。
「俺はさ、瀬戸内さんを大事にすることはできるけど、それ以外のことはできないよ」
「え?」
「だから、いずれは俺に飽きると思う。別に瀬戸内さんに限らず、今までみんなそうだったしね。それにたぶん、一緒にいたら……俺はまた、あなたを疑うと思う」
瀬戸内の瞳が困ったように揺らいだ。
「どうしたらいい?」
瀬戸内のネクタイが曲がっていることに気づいて、直してやる。
結び目を首元まで上げると、彼の不安定な表情があった。
「わかんない。ただもう俺は……穏やかに過ごしたい」
否定とも肯定ともとれる返事を投げた。
しかし、決して投げやりな感情からそうしたわけではない。
今までの恋愛もそうだった。
振り回され、不安になって——結局は失う。
今まで湯川は、誰かにとっての一番になることがなかった。
瀬戸内とも、互いの気持ちがはっきりしないままでは、いずれ同じ状況になってしまうだろう。
すべてを許し、受け入れ、受け止めるほどの器がないことは、充分に自覚していた。
「瀬戸内さん」
頬を撫でて、そのまま肩に手を置く。
彼の目が不安気に揺らいだので、湯川は二の腕をさすってやった。
「俺、9月いっぱいで辞めるんだ」
予想外の告白だったのだろう。
彼の目が見開かれ、瞳を囲っている青白い部分が際立った。
「なんで……?」
「元から決まってたことだから。実家の会社を手伝うことになってる」
彼は黙ったまま、俯いている。
湯川は先に立ち上がると、彼の手をゆっくりと引いた。
膝の埃をはたいてやっても、彼はぼんやりとしたまま動かなかった。
「瀬戸内さんのせいじゃないよ」
「じゃあなんで、言ってくれなかったの……」
湯川は口をつぐんで、彼の髪を揉んだ。
「ほら、電車なくなるから先帰ってください。またタクシー代払わせるつもりですか」
「……君の家に行きたい」
「だめだよ。まだ仕事中だから」
「待ってる」
湯川はため息を吐いて背を向けた。
「だから、だめだって……」
「湯川君」
「本当に、勘弁してください」
背を向けたまま言い放つと、気配がそっと遠のいて——やがて消えた。
彼が去った後、デスクを照らす電気だけが煌々と光っていた。
湯川は入り口の電源をまさぐり、照明を切った。
瀬戸内のデスクは暗闇にとけて、あっという間に見えなくなった。
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