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本来ならば、今朝もそのはずだった。
湯川はいつも通り、ベッドに転がったまま、瀬戸内の身支度する様子を眺めていた。
ネイビーのスーツに、ストライプのシャツ。
足元には、小ぶりのキャリーケースが、きちんと閉じられた状態で立てかけてある。
6月に入ったというのに、スーツで出張だなんて気の毒だ。
外気は湿気をたっぷりと吸い込んだまま、湯気が立ちそうなぐらいに熱をもっている。
すでにTシャツ一枚で出勤している湯川からすれば、想像しただけで喉のあたり——シャツとネクタイでさぞ蒸れるであろう部分が、むずむずしてくるのだった。
最近では2期の新卒の研修も落ち着いたのか、瀬戸内がスーツを着用するのは、週に一回、あるかないかぐらいだった。
「ふー……」
ジャケットを羽織ると、さすがに暑いのか、彼は眉を寄せて襟元を摘んだ。
しかし、すっかりと体に張り付くように馴染んだスーツに、風が入り込む余地はない。
湯川が起き上がる、スプリングの軋む音で、彼の肩が微かに動いた。
そしていつも通り、背後から抱きつくと、白いうなじにキスを落とす。
「暑そうすっね」
「さすがにこの時期になるとね」
鏡越しに見た瀬戸内の目は、すでに期待で潤んでいた。
「脱いじゃう?」
シャツ越しに胸の突起をしごいてやると、彼は身を捩らせた。
そのたびに、のりのきいたシャツが捩れる、ごわついた音が立つ。
「だめだよ。遅刻しちゃう……」
彼は湯川の手を掴んで引き剥がそうとしたが、さほど力がこめられているわけではない。
瀬戸内のこれはいつものことで、拒絶ではなく演出だから、手を引いてベッドに引き込むのは容易だった。
「1、2本、電車遅らせたって、遅刻にはならないでしょ」
しかし、ジャケットを着たままの状態で押し倒すと、さすがに躊躇したようだった。
「あ、でも……シワになっちゃうから」
湯川は膝頭で彼の下半身をやんわりと圧迫しながら、頬を撫でた。
「湯川君?」
一向に先に進まない状況を訝しんだのか、今度は瀬戸内のほうから名前を呼ばれた。
いつもならば、押し倒すなりすぐに脱がせてしまうから、この妙な間をどうやり過ごせばいいかがわからないらしい。
「なんで今日、スーツなんすか」
「……え?」
「出張、ただの研修なんでしょ。別にスーツじゃなくてもいいんじゃないの」
ネクタイを掴んで端を弄びながら聞くが、瀬戸内はなにも言わなかった。
「すいません。余計なこと言って」
湯川は頭をかきながら、ゆっくりと体を起こした。
拍子抜けしたように寝そべったままでいる瀬戸内の腕を掴み、起き上がらせてやる。
背面を軽く叩き、微かにできたシワをのばしてやると、彼に背を向けた。
「まだ時間あるし、一緒にメシ食お」
気温が上昇し始めても、まだかろうじて冷たさを保っているフローリングは、素足をつけると気持ちがいい。
「うん……」
踏みしめると、足底を通して、だんだんと気持ちまでが冷静になっていくのだった。
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