温い春

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「湯川君、またレモン責めに遭っちゃったね」 隣で椅子の回る気配がして、同僚の武山(たけやま)が笑いを堪えるようにしながら言った。 彼女はいつも知らん顔でモニターに向かいながら、瀬戸内と湯川のやりとりに聞き耳を立てているのだった。 「毎回、何かしらやらかしてはレモンに詰められてるけどさ、勤怠関連で怒られたのは初めてじゃない? 5カ月連続でミスすると、流石に部の長が直々にやってくるんだねぇ」 ——そうなのだ。 勤怠を担当しているのは瀬戸内の部下である女性社員で、普段ならば彼が干渉してくることはない。 だから、先ほど背後に独特の圧を感じた時は——まさかと思ったのだ。 「あのさー、そんなに毎回見てるんだったら助け船だしてよ」 「やだ。ってかおたくらのあれ、一種のプレイでしょ? ふたりのお楽しみを邪魔する気はないからさー」 手をひらひらと振りながら笑う武山を見ながら、湯川は微かに鼻翼を膨らませた。 冗談じゃない。 お楽しみなのは、見ている武山の方だろう。こちらは彼が近づいてくるたび、どんな小言をぶつけられるのだろうと、毎回、気が気じゃないのだ。 それに、瀬戸内には気配というものがない。 気づいたら背後に立っていて、そっと声をかけてくるか肩を叩いてくるか、あるいは——今のように間近で無言の圧をかけてくるのだ。 たとえその目的が小言でなくとも、じりじりと、こちらの寿命を縮めてくる。 「あとさー、瀬戸内さんって、うちらが陰でレモンって呼んでるの知ってるっぽいよね」 「えっ? なんで!?」 武山は人差し指をデスクまでのばしてくると、先ほど瀬戸内から手渡された紙をなぞった。 「だってさー、あえて黄色いマーカー使ってるじゃん」 「ただの偶然でしょ」 「偶然じゃないよ。あの人のことだから、絶対にわかってて、あえてやってるんだと思うけどなー」 ——瀬戸内という名字に加え、嫌味なぐらいに爽やかなところがあの果実を想像させることもあり、皮肉を込めて、陰で「レモン」というあだ名で呼んでいる。 そう呼んでいるのは湯川や武山だけではないのだが、彼に見透かされているのかもしれないと思うと、途端に嫌な汗が毛穴から滲み出てきた。 「湯川君に自分の存在感をアピールしたいんじゃないの」 「勘弁してよ」 「ほら、瀬戸内さんって湯川君のこと大好きじゃん? いつも理由つけて席まで来てさー。そろそろ腹を括って、愛を受け止めてあげな」 わざと白目を剥いて身震いして見せると、武山は椅子の背もたれに勢いよく寄りかかりながら笑った。その背面が、彼女のオーバーリアクションにつられて前後に揺れる。 ひと笑いしてすっきりしたのか、武山はモニターに向き直った。 湯川もそれにならって前を向くと、遠方のスペースで打ち合わせをする瀬戸内の姿が、ふたたび視界に入った。 髪はきちんと整えられているが、やや長めの前髪だけが、俯いた拍子にはらりと額を覆う。 それを摘んで耳にかける指先の動きまでもが、優雅でしなやかだった。 軽やかで爽やかで、完璧。 花粉すら寄ってこないのか、こんな陽気でもくしゃみをしたり目を擦ったりすることもなく、背筋を真っ直ぐにして座っている。 彼には、一切のシワやヨレというものがなかった。 初めて会ったあの日も、瀬戸内はそうだった。
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