温い春

4/4
前へ
/152ページ
次へ
紳士服を扱うアパレルメーカーから来たという彼の、スーツの着こなしにも目を見張ったが、なにより印象的だったのは、隙のなさだ。 髪には少しの乱れもなく、シャツやスーツには座り皺すらない。靴はきれいに磨かれていて、踵もすり減っていなかった。 全社員を前にしても、彼は背中に針金でも入っているかのように姿勢よく立ち、滑らかな声で挨拶をした。 そして、それを受け取った社員の表情で、まわりも概ね、自分と同じような印象を彼に対して抱いているのだと悟った。 ——周囲は時折、彼のことを、ピンと張ったホテルのシーツのようだと揶揄した。 もちろん、ピンとしているのは見た目だけではなく、仕事ぶりに関しても言えることだった。 おそらく、それなりに緊張感のある現場に身を置いていたのだろう。彼はそれまで手薄だった人事評価の再考をはじめ、抜本的な改革を次々と提案し、すぐに頭角を現した。 結果、それらが功績となって、3年足らずで総務人事部長にまで上り詰めたのだった。 「あいつは引き抜きだから」「経営陣とつながっているから」などと、異例のスピード出世をやっかむ者もいたが、彼の仕事ぶりを冷静に見れば、その処遇は至極当然のことだった。 また、これまで中途採用しかしてこなかったEdgeで、新卒採用を始めたのも瀬戸内だ。 昨年は創立以来初めてとなる新卒一期生が8名、入社してきたのだった。 湯川は視線をずらし——そのにピントを合わせた。 入社時から比べると、スーツが大分、体に馴染んだように思う。花粉対策でマスクをしているが、時折、息苦しくなるのか顎の下にずらしていた。 黒くて丸っこい髪型の後頭部が、少し跳ねている。 寝癖が治り切らないのは、相変わらずらしい。 もう自分は、そこを撫でることも、指摘することすらできないのだけれど———— 潮が満ちるように、感傷が足元まで押し寄せてきて——湯川はあわててモニターに視線を戻した。
/152ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1199人が本棚に入れています
本棚に追加