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温い春
冷水に少しずつ湯を足していくような、そんな春の初めだった。
湯川聡介は、凝り固まった首をひと回しすると、鼻から思い切り空気を吸って口から吐いた。
多少のむず痒さはあるものの、くしゃみや目の痒みはない。
行き交う人々は皆、上瞼がだらしなく垂れ下がり、冬眠から目覚めたばかりのような顔をしている。そして皆、揃いも揃ってマスク姿だ。
花粉の舞うこの時期になると、湯川は自身の体質を心からありがたく感じると同時に、決まって思い出すことがあった。
「湯川君、今月の勤怠の入力、早速また間違えてるんだけど」
瀬戸内慶太は、出力した勤怠表をひらひらと揺らしながらデスクの前に立ち、嫌味なぐらいに口角を上げて笑った。
入力ミスをした箇所には、ねちっこくマーカーまで引いてある。
「嘘だー、今月はちゃんと……」
「3日の打刻修正が重複申請になってるよ。4日は未入力のままだから、1日間違えて申請してるね。あと、9日のここ、残業申請が出てないのに打刻が23:30になってる」
今月こそは指摘されないようにと、慎重に入力したつもりだったが、やはりミスをしてしまったようだ。
さらに、残業申請に至っては、完全に忘れていた。
真っ直ぐに引かれた、執着ともとれる黄色いラインを目で追い、瀬戸内を見上げると——小首を傾げて「ね?」と念を押されてしまった。
「はあ、どーもご丁寧に、わざわざ席まで来ていただいて……。すいませんね」
メールで差し戻せばいいのに——語尾に含みをもたせながらも、とりあえず詫びておく。
瀬戸内は湯川の椅子のヘッドレストを掴むと、ゆらゆらと左右に揺らしながら、覗き込んできた。
「湯川君、俺に会いたかったんでしょ?」
「……はい?」
「ごめんね。最近なかなか席に来られなくて。でもこんな遠回しなやり方でアピールするんじゃなくて、直接言ってくれていいのに。俺ら、同期なんだしさ」
返事代わりに長いため息を吐くと、彼は声を上げて笑った。
「いや、あの……」
「とにかく、君は入力ミスと申請漏れが多すぎる。これで5カ月連続です。残業をする時はなるべくその日中に申請してください。入力や修正をするときは、ゆっくり、正確にお願いします」
にっこりと微笑むと、こちらが返事を返す隙も与えず、身を翻して歩いていってしまった。
湯川は再びため息を吐きながら後頭部を揉み、彼から渡された勤怠表をまじまじと見つめた。
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