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私は弟が帰ってしまってからもしばらくしゃがみ込んで泣いていた。
けれどもあまりにも寒くなってきたので、アパートに帰ることにした。立ち上がり、ぐちゃぐちゃになった顔を拭い、のろのろと誰もいない部屋へ向かう。
帰途に就く道すがら反芻していたはずの心のもやもやは、到着した玄関の重々しい扉の前でゆっくりとその鳴りを潜めた。
手袋を着けたまま鍵を回して、忍ぶように中に入る。少し傾き始めた日差しが落とす家具の影が静かに私を迎えてくれた。
「鳥目…」
昨日を取り戻したくて、こっそりと呟いた喉が、ひどく渇いていて千切れそうに痛んだ。
お水でも飲んで落ち着こうと、台所ののれんを捲る。ふと見るとシンクの棚の所にメモが貼ってあった。
「なんだろ、これ」
ひとりごちて、深く考えもせずにマグネットを外すと、そこには知らない男の人の字が連なっていた。
「昨日はありがとう。また来るから」
こんなもの見なければ良かったのに、結局一晩中泣き明かした。遅い朝日が部屋を灯すまで、座卓にへばり付いて泣いた。
何がこんなに悲しいのか分からなかった。
世界から一人だけ取り残されてしまうような気分だった。
カーテンを閉めないままで居た窓が凍てついてカタカタと震えている。望んでもいない夜明けが室内に起った埃をそっと象っていた。
擦りすぎた瞼と、涙で突っ張った頬が痛い。脱水気味の体を覆う倦怠感が鬱陶しい。
澱んだ空気に飽きた私は、重たい腰をゆっくり上げた。
例のメモが放って置かれたままになっている台所に行く。きゅっと蛇口をひねると、金属的な音と一緒に氷のような水が溢れ出た。
私はその水を勢いよく手に取り、痛くなるまで顔を洗って、新しいタオルでごしごしと拭いた。二日間ほったらかしにされた二十七歳の肌が、悲鳴を上げて軋んでいる。
まるで戒めの儀式の様だと、思った。
徹夜明け独特のぼんやりとした気怠さに嫌気が差し、玄関を開ける。痺れるような寒さの早朝へ、私は出かけた。わざと部屋着で飛び出した。
低いところをうらうらと煌めいている太陽が、露に反射して鈍く視線を遮ってくる。
私は、見慣れていてどこか異なる不思議な朝を歩いていた。
もう二度と、以前までの冬の朝を見ることは出来ない気がしていた。
これからずっと弟が、誰かよその人を家族と呼ぶ限り、私はずっとこの冬を越せないままでいるのだと。
どこかの犬の遠吠えが朝靄を劈いた。
寒さを増した冬日の道に迷ったままで立ちつくす。
怯えて震える子供のように、私はひっそり目を閉じた。
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