遠吠え

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「殴られた?」と、私が訊くと、 「ボコボコ」と、弟は答えた。 「彼女はなんて言ってるの?」 「産みたいって」 弟は柄にもなく地面を見つめながら照れている。 「彼女の親は?」 「今堕ろしてしまって、一生産めない体になったら大変だからって言ってた」  この世の中にそういう話が溢れかえっていることは知っていたが、まさかうちの弟が、他人様の娘を孕ますなんてことがあるとは思わなかった。  堅物そうに見えるのになぁと思って、また少し距離を感じた。 「そのひとのこと、ちゃんと、好きなのよね?」  震える声で贈った言葉は、そんな無粋なものだった。ありきたりだが家族としてきちんと確認しなくてはならないことを、私は事務的に口にした。 「愛しているのか」とは訊けなかった。  きっと弟は思うだろうから。お前なんかに愛が分かるのかと、きっと思うだろうから。  弟は頷いた。 「どっちみち、ゆくゆくは結婚しようと思ってた。付き合いも長いし」 弟は初めてこっちに真正面から向き直った。 「ちゃんと、好きだよ」  私を見据えて、自分に言い聞かせるように、声を発した。  気が付くと私は泣いていた。  うずくまって大きな声で泣いていた。  閑かな冬の町の中、たくさんの通行人が私を振り向く気配を感じた。  弟は何処へ行くのだろう。  私の元をいよいよ遠く離れて、きっとこれから先、何十もの冬をそのひとと過ごすのだろう。  水炊きをそのひとに作ってもらって、暖かい部屋で幸せに暮らすのだろうか。    私は、何か宝物を盗られた子供のような気持ちだった。 「姉ちゃん」  頭上から弟が私を呼んだ。  さっき掃除機を投げ出したときに向けられた笑顔を思い出した。あの顔をまたしているのだろうか。私の弟は。 「おめでと」私は声を振り絞ってそう言った。精一杯の、理性だった。 「うん」  弟は短く答えてから、ぽんぽんと、私の俯いた頭を撫でた。  それからゆっくりと、離れて消えた。
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