水の中へ

5/9
前へ
/369ページ
次へ
『絢にこの部屋あげるよ』 数年前に藤井さんが言った言葉と、 頑なにそれを断った私に苦笑いした顔がよぎる。 あの部屋には、藤井さんとの記憶がたくさんあり過ぎて、またそこに行くのは少し怖い気がしてしまう。 それも藤井さんの一人息子のこの人と、なんて。 藤井さんの顔が頭の中を占めた時 「絢」 突然呼ばれた名前に驚いて、顔を上げた。 「せっかく入ったんだし、ちょっと泳ごう」 「え? 待って、私泳げないって……」 「大丈夫。 腕をこうして……軽く掴まってて」 そう言いながら 私の腕を自分の首に回すようにした。 軽く掴まるって……? そう聞く暇も無く 今度は彼の腕が私の身体を抱えるように回り 次の瞬間には足がプールの底から離れ 彼の身体と一緒に水に浮いた。 そして、すーっと前へ進む。 「一緒に軽く足動かしてみて。 もっとスピード出る」 言われるままに 足を水の中で動かしてみる。 「そうそう、良い感じ」 顔に水がかかっても気にならない位 初めての泳ぐ感覚にドキドキする。 「オレね、昔、ライフセーバーやってたの」 「ライフセーバーって、海とかの……? 」 「そう。もっと日焼けもしてて黒かった」 今はそんな面影も無い感じだけど……。 「これサイドストロークって泳ぎ方なんだけど、久々にやったよ」 私を抱えて泳ぐ横顔が、そんな話を聞いたら頼もしく見える不思議。
/369ページ

最初のコメントを投稿しよう!

470人が本棚に入れています
本棚に追加