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冷たい空気がすうっと体に流れ込む。濡れた頬が冷たくなるけれど、今の千紗子にはそんなことすら気にならない。
「声も出せないのか…可哀想に」
頬が温かなものに包まれる。
「そんなに噛んだら傷になるぞ」
その男性は、千紗子の両頬を包み込んだその手の親指で、そっと彼女の下唇をなぞった。千紗子はそれをぼんやりと見上げる。焦点の合わない瞳は、彼の姿を見ているのかも怪しい。
そんな彼女のまなじりにその男性は唇をそっと押し当てた。そして流れ出る涙を唇で吸い上げる。
リップ音を立てながら涙を吸っていた彼は、それでは間に合わないことに気付き、途中からペロリと舌で涙を拭い始める。それから音を立てて顔中にくちづけを降らせた。
彼は本来こんなことをするような人ではないし、そんな関係でもない。
だからそれがどうなのか、良いのか悪いのか、今の千紗子には全く判別できなかった。
否、しようとすら思わなかった。
辛すぎる出来事が彼女から感情と正常な判断を奪い、ただ目の前の出来事は、自分のことではなくてスクリーン越しに観る映画のようだった。
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