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焦点の合わない瞳をぼんやりとさせていると、顔中に這っていた唇が千紗子の口の端をかすめた。
うかがうように唇の端を口くちづけた後、彼の唇が離れていく。
「そんな顔を見たいわけじゃないんだ。俺は君の笑った顔が好きだから」
低めの声がそう告げた時、千紗子の瞳が一瞬揺らいだ。
それまでは虚ろで何も映すことの無かったそこに、かすかな光が宿る。
でもそれは本当に一瞬だけのことで、すぐに彼女の瞳には薄い膜が覆った。
そんな千紗子を彼は切なげに見下ろす。
「君が望むなら、どんなことでも叶えてあげたい。君は何を望むんだ?」
しっとりと響く甘い声が、静かな部屋に落ちる。
千紗子の感情の見えない瞳がかすかに揺れる。彼女はそっと瞼を閉じた。
「なにも、かんがえたくない…全部わすれたい………」
閉じた瞳からは、留まることなく涙が滑り落ち続けている。
「ううっ………」
またうめくような嗚咽が口から漏れた。それを堪えようと千紗子は再び唇を噛みしめる。
と、その時―――
千紗子の唇がしっとりと温かいもので覆われた。
ただ重ねただけの唇をそっと離すと、かすかに唇同士が触れ合うほどの距離で、彼の唇が動く。
「こら、噛むんじゃない。血が出てる」
そう告げた後、彼はその舌先で血の滲んだ千紗子の唇の端を舐めた。
動物が傷を癒す時のように、何度か丁寧に舌で撫でられる。
本来なら性的な意味を持つその行為には全然いやらしさは感じられず、逆に労わりの気持ちが千紗子の中に流れ込んで来る。
ずっと全身を強張らせていた千紗子の体から、フッと力が抜けた。
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