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胃から込み上げてくるのは、吐き気なのか自分の感情なのか。
ただそれを堪える為に、千紗子は両手と唇に痛いほどに力を込めた。
彼女の体はずっと小刻みに震えたままで、血の気が引いて体中が冷たくなっている。けれど、当の本人の千紗子は、冷たさなど感じていない。ただ、この場で崩れ落ちてしまうことだけは、したくなかった。
そんな彼女の冷えきった体の中に、一か所だけずっと温かいままの場所があった。
雨宮の手が触れている背中だ。
体の感覚すら分からなくなっている千紗子の背中を、その手はそっと支えるように添えてあって、彼女の体が大きく震える度に小さく静かに撫でる。
雨宮が口を開いたのはさっきの一度だけだけれど、千紗子がその存在を忘れることは一瞬も無かった。
背中に灯る温もりは、今の千紗子にとって途切れそうな意識を保つ唯一の拠り所になっていた。
「千紗…なんとか言ってくれ」
縋るするような目をした裕也が、ソファーから立ち上がろうとしたその時、サユリ、と裕也が呼んでいた女が素早く裕也の腕を掴んだ。
「裕也ったら、その女のご機嫌をとることないわよ」
「サ、サユリ!離せっ」
「だって、見なさいよ。隣に男がいるでしょ。その女だって男連れ込んでるじゃない。おあいこね」
そう言って裕也から顔を千紗子に向け女は、楽しげにクスクスと笑った。
「しかも極上の男ね。いい男捕まえたわねぇ」
ちがう、と反論したいのに、想像を遥かに超えた言いがかりに、目を見張ることしか出来ない。
「ち、千紗…そうなのかっ?お前…俺を裏切って……」
サユリの言葉を聞いた途端、目の色が変えた裕也の言葉が、千紗子の胸をえぐった。
「もう、やめてっ!!」
千紗子は両耳を塞ぎながら叫んだ。
もう何も聞きたくなった。
これ以上ここに居たら心が粉々になってしまう。
千紗子は踵を返して玄関から飛び出した。
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