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目が覚めたら、私は駅にいた。夕方から夜にかけて藍色に塗られかけた空に、洋燈の光が頼りなさげに揺れていた。
別に驚きはしない。最近よく眠れていなかったから、夢でも見ているのだろうと存外冷静に私の脳は働いていた。
辺りを見回すと、そこは無人駅では無いことに気付いた。私は目を見開き、ふらふらとその人影に近付く。その横顔はとても懐かしく、どうしても手の届かなかった人だった。
「あ…の…」
上手く声は出なかった。本来もう二度と会えないと思っていた人なのだ。どれだけ泣いても、その声は届かない人なのだ。
その人はゆっくりとこちらを振り向いて、困ったように
「来ちゃったの?」
と苦笑いをした。
この人が私を知っている訳が無い。この人にとって私は赤の他人だから。それでも、白昼夢に踊らされているのを頭では分かっているくせに、それでもいいかと思っている自分がいるのも確かだった。
それよりも、「来た」とはどういうことなのか、私には分からなかった。でもこの人は来てほしくなかったようだ。私はあんなにも会うことを望んだのに…そう思うと、胸がギュッと苦しくなった。
「切符見せて」
そう言われた私は勘でポケットに手を突っ込んでみる。見当は当たったようだった。
彼女に渡したその切符を見て、彼女は心底安心したように息を吐いた。
私には全く理解出来なかったが、彼女に会えただけで満足だった。他のことはもう何処かに捨ててきた。彼女に会えたら、もう私は何も要らない。
彼女はそっと私の手に切符を返しながら、
「もう行かなきゃ」
と言った。
なぜ?もうあの時間の中に戻りたくない。貴方がいなくなった後の世界は、散々だった。貴方の遺したものは多いくせに、それは何の慰めにもならなかった。
「私も一緒に行く」
言葉の意味は、分からないふりをして、私はそう言った。だけど彼女は切符を指差しながら、首を横に振る。
私が例の切符に目を落とすと、そこにはしっかりとした印刷で、『入場券』と書かれてあった。
それで全てを悟ったんだ。これが本当の別れだということ。そして貴方はこの電車に乗って行ってしまうということを。
「行かないで」
私の口からはそんな薄っぺらい言葉しか出てこなかった。
貴方は
「生きて、私に追いついてから来てね」
と笑いながら私の頬を撫でた。こんなことを言われた私が出来ることは、彼女の後悔や遺した願いを持って帰って、叶えることだけだ。
それが遺された私の誓った夢。
汽笛が高らかに鳴った。お別れだ。
「夢のある君が入場券しか持っていなくて、本当に良かった」
彼女は子供扱いをするように、私の髪をぐしゃぐしゃにした。
やっぱりいつまでも変わっていない。意思を貫くところも、突拍子もないことを言い出すところも、自分を曲げないことも…かっこいい大人であり続けることも。
「待ってて」
私が言えるのはこれだけだ。
「待ってるよ。ずっと」
だから、焦らないで歩いておいで。
やっぱりどれだけ近づいても、貴方の背中しか見えない。
でも、絶対いつか追い抜いてやる。そして、顔を合わせて笑ってやる。だからその日までは…
ありがとう。バイバイ。
私は静かに彼女を乗せた電車を見送った。
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