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「進藤さん会社辞めちゃうんだって? 寿退社?」  朝の九時十分前、出社間際の社員達で混み合うエレベーターホールが一瞬凍りつく。  三十五歳、独身女に対して周囲が禁句にしていたセリフをいとも簡単に口にしてみせたのは、同期の榎田君だった。 「違う」  私はぶっきらぼうにそう答えた。 「何だ、残念だね。じゃ、僕がお嫁さんにしてあげようか」 「遠慮しとく」  私は榎田君を南極のペンギンも凍りつく様な冷ややかな目でにらみつけた。 「うん。だよねー。僕も嫌だ」  榎田君は丸いお腹をユサユサとゆすりながら「あはは」と笑った。  ずんぐりむっくりの体に、色白の大福の様な顔。脂肪でパンパンにに膨れた頬はツルツル卵肌だ。  入社当初も子供なのかおっさんなのかわからない感じだったけれど、十三年間たった今も、ポッテリとしたお腹が更に丸くなった以外は全く変わらず、年齢不詳のままだ。  榎田君が顔を近づけると、太った人特有のツンとした酸っぱい匂いが鼻についた。 「今度進藤さんとこに来た女の子、可愛いよね。僕凄く好みなんだけど」  榎田君はそう言うと「ぐふふふ」と気持ち悪い声を出した。    そう、私の後任を任せられる事になったのは、四月に入ったばかりの、入社して一年も経ってない女の子だった。小柄で可愛らしい、その大きな瞳で見つめれば、何でも許して貰えると思っている様なそんな感じの女の子だった。  八年間必死になってやってきた事を、会社の事なんて何にもわからない様な子に、一か月程で引き継がなければならないのだ。  課長からイレギュラー対応等の引き継ぎ資料を作成する様、指示された。  窓際部署である管理係の仕事なんかは、マニュアルと引き継ぎ資料さえあれば、何もわからない新人でも事足りる、という事なんだろう。    私は自分のデスクに向かうと、昨日の業務の確認をする為にパソコン画面を開いた。  基本事項はだいたい説明し終えたので、昨日は後任の根本さんに任せて溜まりに溜まっていた有給を取ったのだ。  私はいつものピンク色のマウスを使って、営業部から送られてきたデータを一つ一つチェックしていく。  マウスは私の手の平にしっくりと収まって、デスクの上を滑らかに動き回る。  元々会社にあったマウスは、長時間使うには操作性が悪過ぎた。自分様のマウスを購入する際、あまり考えずにピンクなんて可愛らしい色を選んでしまってから、私は失敗したと思った。この歳でピンクなんて......。  けれど、遅くまで残業していても気付かれない空気の様な存在である私のマウスの色なんて、気にする人は誰もいなかった。きっと私が純金製のマウスを使っていても誰も気にもとめないんだろう......。 「あ、根本さん『慶友社』は新規顧客ファイルの方だよ」 「そうなんですかぁ。課長に聞いたらこっちで良いって」  私が思わず課長を見ると、メールチェックしつつ朝のコーヒーなんぞを飲みながら寛いでいた課長は、慌てて手元にあったゴルフ講習会の資料を手に取った。  こんな初歩的な事すら教えられずに大丈夫なんだろうか。やっぱり私がいないとダメじゃない......。  なんて、思ってしまってから思い直す。  私は御局様化しない為に森重産業を辞めるんだった。仕事にしがみつくのはみっともない......。 「ごめんなさぁい」  根本さんが甘ったるい声を出すと、売上管理課の男どもの鼻の下が五ミリ伸びた。それと共に女子達の眉間がピクピクと引きつるのがわかった。
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