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「根本さん、井倉物産、営業から修正依頼来てたけどやってある?」
「ああ、ごめんなさぁい」
根本さんがいつもの様に甘い声を出す。
けれど今はもう、鼻の下を伸ばす若手男子社員も眉間にシワを寄せる女子達も退社してしまっていて、管理部には私と根本さんと課長の他は誰もいない。
ただでさえ忙しい月末処理を根本さんに教えながらなので、いつも以上に時間がかかる。
珍しく残ってくれている課長は、はっきり言って全然役に立たない。とりあえずパソコンに向かって自分の仕事をしているフリをしている。本当は社内ニートって課長の事なんじゃないだろうか……。
「えっとぉ、どうやるんでしたっけ?」
「これ、引き継ぎ資料。イレギュラー事項を細かく記載しといたから、読んでやってみて。明後日から聞く人はいないからね」
私は、遅くまで残業してやっと出来上がった引き継ぎ資料を根本さんに手渡した。
「うわぁ、ありがとうございます。凄く細かく書いてある」
根本さんは「えっとぉ」と小さく呟きながら、引き継ぎ資料に目を落とす。
彼女の甘ったるい声は地声なんだろうか。私と二人っきりの時も、独り言の時も同じ様な声を出している。この声で彼女はずいぶんと特もしているのかもしれないけれど、時にはデメリットでもあるのかもしれない......。
自分でも矛盾している事をやってるな、と思う。
根本さんが一人でも困らない様に、私は毎日根気よく指導した。日々の業務が終わった後は、遅くまで残って引き継ぎ資料を作成した。
けれど私は木下物産の項目を引き継ぎ資料から削除したのだ。
いつかやって来るであろうその日の為に……。
それは毎月必ず行う作業では無い。木下物産の特定の事案にだけ修正が必要になる。前の課長の代の時に、私は知らずにそのままデータを作成してしまい、凄く怒られた事があるのだ。
初め私はバカバカしくなってきて、引き継ぎ資料なんて作るのを止めよう、と思った。けれど、せっかく十三年間真面目に仕事をしてきたのに、最後の最後に職務怠慢だと言われるのは嫌だった。
わざとデタラメな事を記載して、根本さんと課長を困らせてやろうかとも思ったけれど、そんなバレバレな事をしたら「御局様怖いね」なんて周りの人達に思われるに決まっている。
だから特に記載しない事にしたのだ。
これは誰かに教えて貰った事では無い。
実際に前の課長からは「こんな事、少し考えればわかるだろうが」と怒鳴られたのだ。
当時、管理係に就いて数年目だった私が少し考えればわかる事なんだから、私よりもずっと長く森重産業にいる橋本課長ならば特に記載してなくてもわかるって事だ......。
実際に課長と根本さんが困る様な状況になるかどうかは関係無い。
もしかしたら、その時には根本さんも課長も別の部署に異動になっているかもしれない。もしかしたら、根本さんが「ごめんなさぁい」と可愛い声で謝ってそれで簡単に済まされてしまうかもしれない。もしかしたら、根本さんが凄く仕事ができる様になっていて、疑問を感じた彼女が昔のデータを確認して上手く処理してしまうかもしれない。
でも、仲の良かった同期の子達はもうとっくに退職しているし、榎田君となんて今後一切関わり合いになりたく無いから、辞めた後の事を私が知る機会なんて今後ずっと無いんだろう。
大事なのは、いつかそれが起こるかもしれない、と私が思い続ける事ができるという事だ。
今後ずっと、自分が埋めた地雷を二人がいつ踏むのかいつ踏むのかと、私は自分のアパートの暗い部屋の中でワクワクしながら過ごす事ができるのだ......。
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