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「長い間お疲れ様でした」  同じ管理部の女の子から大きな花束が手渡されると、パチパチとまばらな拍手が起こった。 「資格試験頑張って下さい」  別の子からはプレゼントの包みを渡される。  退職していく人には毎回必ず、花束とちょっとしたプレゼントが渡される。別に特別な事では無いけれど、少し驚いたふりをして見せた方が良いのだろうか? 涙ぐんでみたりとか……。  でも残念な事に私は女優では無い。自在に涙なんて出せないし、私がわざとらしく驚いたりしても、ただ周りをシラケさせるだけだろう。  私はいつも通り無表情に「ありがとう」と言ってプレゼントを受け取ると、事前に考えてきていた退職の挨拶を淡々と述べた。 「本日をもちまして、一身上の都合により森重産業を退職させて頂く事となりました……」  大袈裟に鼻を啜ったりして周りをシラケさせているのは、営業部から駆けつけてくれた榎田君だった。  彼の精神年齢は幼児並みだから、流している涙は嘘では無いんだろう。明日になればケロリと忘れているんだろうけど……。 「進藤すゎん……結婚できなくても、落ち込んで引きこもったりしちゃダメだからね……いつかは、君なんかでも良いって人が絶対現れるから……諦めないでね……」  榎田君はなんだかしっとりモチモチした手のひらで私の手を握りしめると、上下にブンブンと激しく振った。  よく見ると、彼の顔をベチャベチャにしているのは、涙よりも鼻水の方が多い様だ。 「僕の結婚式には招待しないけどぉ、結婚祝いパーティーにはぜひ来てねぇ」  榎田君はズビズビと鼻を啜ると、何やら菓子折りの様な物を手渡してきた。  寿と書かれたのし紙がチラリと目に入ったけれど、彼と会うのもまあ最後なんだろうから、目を瞑ってやる事にした。 「良し、これでOK、お疲れ様」  私はエンターキーを押すと根本さんに声をかけた。  今日も残っているのは、私と根本さんとさっきから自分のデスクで腕を組みながら船を漕いでいる課長の三人だけだった。  私は残っていた私物のボールペンやらメモ帳なんかを片付けていく。 「進藤さん、短い間でしたが、お世話になりました」  根本さんはそう言うと、何やら可愛らしい包みを手渡してきた。  うん、一般的な常識はわきまえている様だね。 「ありがとう。明日から一人だけど頑張ってね」 「えっとぉ……私、実は管理係に配属になるって聞いた時、やっぱりなって思ったんです……」  根本さんの声はいつもの様にふわふわと甘ったるいものだったけれど、彼女の大きな瞳には僅かではあるがどこか芯の通った様な深い色が宿り始めている事に気がついた。 「私バカだから、いつも簡単な仕事しかさせて貰えなかったんです。何かミスしても『根本さんだから仕方ないな』って。私もそんなもんかなって思ってました。だから管理係に異動が決まった時は、楽できてお給料貰えるならそれも良いかなって……あ、ごめんなさい……」 「良いよ。社内ニートって言われてるのは知ってるし」  私は自嘲気味に微笑んだ。  そんなのにはもう慣れてる......。 「でも、やってみたら結構複雑で。今までは間違っても、言われた通り直せは良いんだよって感じだったんですけど、進藤さんはそうじゃ無かった。凄く真剣に教えてくれたし、こんなに丁寧な資料も作ってくれて……」  地雷が埋められているとは知らない根本さんは、私が作った資料に目を落とした。  私が一生懸命に教えたのは、別に根本さんの為とかじゃ無い。会社の為とかでも無い。多分、八年間必死に築き上げてきた事を、担当が変わったからといってグズグズにされたくなかったからだ。  御局様は自分の仕事と過去にしがみつく……。 「進藤さんが初めてだったんです。私を一人の社会人として認めてくれたのは。だから……ありがとうございます」  根本さんはそう言って小さな頭をペコリと下げた。 「え、えっと……」  思わず根本さんの口癖を口にしてしまった私を見て、彼女は小さく微笑んだ。  根本さんがどういうつもりでそう言ったのかはわからない。もしかしたら彼女は凄く頭の回る子で、御局様化しつつあるアラフォー女の自尊心を刺激してやる為のリップサービスで言っただけかもしれないし、明日になったら「あーアイツいなくなってスッキリした」なんて笑っているかもしれない。  けれど、それは彼女の中から真っ直ぐに出てきた言葉である事だけは良くわかった。  他の社員達みたいに、どこかで聞いた事のある言葉をそのまま口先に張り付けただけのものでは無かった。  今まで空気の様に扱われてきたから、真正面から向き合われると、何と答えたら良いのかわからない……。  そう言えば、御局様って後輩に煙たがれる古株の女性社員だった。元々一人しかいない管理係では御局様になりようが無いのに......。  もし私に後輩がいたとしたらどうなっていたのだろう。私は御局様になっていたのだろうか。森重産業を辞めようと思ったのだろうか......。  私はもうすぐ私の物ではなくなるデスクに目をやった。  私の支配していた小さな世界はそこにはもう無かった。無機質な、誰の物でも無い机とパソコンがあるだけだった......。  私はピンクのマウスをそっと手の平で包みこんだ。 「そう言えば、その引き継ぎ資料なんだけどね……」    私は自分の作った資料をパラリとめくった。
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