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「どうかしたのかい?」
遠江に声をかけられ、和宏は小さく首を横に振る。
最近担当との打ち合わせ時に、遠江と二人きりになることが増えた。初めは警戒していた和宏だったが、思えば彼が自分に手を出したことは一度もない。そのためか和宏も片織も安心しきっていた。
歳のせいで落ち着いていられるのかと思ったが、どうやらそういうことではないらしい。
「僕は、君が幸せならそれでいい。いや……そう思いたいんだよ」
ソファーに腰かけ前かがみになって両手を組みチラッとこちらに視線を向けた遠江。和宏が疑問を投げかければ穏やかな笑みを浮かべ、そんなことを言う。
和宏はカウンターテーブルに寄りかかり、アイスティーの入ったグラスを弄びつつ小さくため息を漏らすと彼から視線を逸らす。離れている距離が心の距離だとするならば、自分たちはきっと交わることはないのだろうと思えた。
もしくはその距離を取らねばならないほど、彼は自制しているとも言える。
──彼なら俺の悩みに答えをくれるだろうか?
どんなに手を差し伸べようとしても、優人は抱えているものを一人で何とかしようとする。楽にしてあげたいと願っても。
「そう……彼らしいね」
和宏が思い切って打ち明けた悩みに、遠江はくすりと笑う。
「優人くんは……」
柔らかい優しい声が次の言葉を紡ぐのを和宏は黙って待つ。
「理性と欲情という相反するものの中で矛盾に苦しんでいる」
”でも”と彼は続ける。
「それでいいんじゃないのかな」
「いい?」
それでは何も解決しないじゃないかと思った。眉を寄せる和宏を穏やかに見つめる遠江。
「常に理性的でいたいと彼は願っているんだろう?」
「恐らく、そうだと思う」
和宏は遠江の質問に曖昧な言葉を返す。
「でも、君に対しても常に理性的でありたいとは思っていないはずだよ。だからその矛盾に苦しむんじゃないかな」
理由がわかったところでどうにもならないのは事実。ため息を一つ漏らし、俯いていると遠江がふっと笑う。
「和宏は……それで良いと言ってあげればいいんだよ」
「え?」
「君は、自分に対してまで理性的でいる必要はない。それでいいと肯定してあげたらいい」
遠江は”彼を認めてあげたらいいんだよ”と繰り返して。
「どうしたの、急に」
遠江と担当の片織が帰った後、和宏は優人の通うK学園大学部の門のところで彼を待っていた。
「会いたいなと思って」
和宏の言葉に驚いた表情をする彼。無理もない、自宅マンションから大学まではすぐそこなのだから。
「平田君は?」
「バイト」
「そっか」
”会いたかった?”と問われ、和宏は返答に困る。どう答えようがあまりいい感じはしないだろう。
「ごめん、変なこと聞いた」
「いや」
手を差し出され、和宏は反射的にその手を掴む。平田がバイトということは今日は徒歩なのだろうと思った。
「何かあった?」
「なぜ」
”好きだから逢いたいと思うのは普通なことだろ?”と問い返せば、心配そうにしていた優人の表情が緩む。
「理性を失うこともあるし、変じゃないよ」
和宏は遠江に言われたことを思い出す。
『どんな理性的な人だって愛しい人を前にして理性を保つのは難しい。だから自分に嘘をついたり、違うことを考えたりしてやり過ごすこともあるんだ。それはおかしなことではないだろう?』
和宏の言葉でそれを優人に教えてやれと彼は言う。
「俺は理性的な優人が、俺に対して心を乱すのが……嬉しいと思う」
和宏の言葉を黙って聞いていた優人は”そっか”と言って笑った。街に流れる音楽はまるで悩みを吹き飛ばすかのように明るく軽やかだ。
隣で歌を口ずさむ彼。音楽に合わせて。和宏はそんな彼の手をぎゅっと握る。
「知ってるんだ?」
「平田が好きなんだよ」
”だからいつの間にか覚えちゃったんだよね”と優人は肩を竦める。
「平田君らしい選曲だな」
「そうだね」
少しでも彼に明るい変化をもたらすことは出来たのだろうか?
今は明確な答えがなくても、近い将来何かが変わる予感がした。
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