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「黙ってろよ……なんにも知らないくせに」
こぼれた反論はあまりにも弱々しかった。
抱いた彼の体は冷えた汗で少し冷たい。だけどこうしていると、波立った気持ちが落ち着いていくのがわかる。俺を苛立たせた男なのに、抱き合うと落ち着くなんて不思議だ。
背中にそっと安藤さんの手が置かれたのを感じた。だが俺は、その手に力がこめられる前に、彼から離れた。
置いてきぼりの迷子みたいな目で、彼が俺を見る。
「……あ」
本当は、彼を説得して早くシャトルの件の決着をつけたかったのに、言葉が出てこなかった。そのまま俺はみっともなくよろけながら踵を返すと、足早にその場を離れた。
途中からはいてもたってもいられなくなって走り出す。そんな俺を、擦れ違う人が何事かと驚いて見送っていた。やっと落ち着いたのは、会場の裏手にある公園のベンチに倒れるように座りこんでからだ。
ハァ、ハァ、と乱れる呼吸の中思う。
こんなに動揺するなんてどうかしてる。まるで世慣れていない新入社員にでも戻ったみたいだ。だけど――。
「刺さったな……正直」
彼の言葉に、そうじゃないんだ、と胸の奥の奥で消えかけていた初心のようなものがうずいた。いつのまにか忙しさの中で忘れていた最初の情熱が刺激されて、息を吹き返した気がした。
俺はやっと整ってきた息をもう一度大きく吐き出すと、携帯電話を取り出す。そして、丸山自動車の住谷さんに電話をかけた。
はた目には公園のベンチでひとりぺこぺこ頭を下げるおかしなリーマンに見えているだろう。だがなりふりかまっていられない。なんとか最初の話だけ通して電話を切る。
次は、本当は借りを作りたくないけど、同期の神林は制作部に顔がきくからしょうがない。つないでもらおう。それで、最後に大泉部長に説明して承認してもらわないと……。
「あー、めんどくせえな!!」
公園にいるのをいいことに、天を仰いで思いっきりぼやく。きっと今からやるとなると時間が足りない。方々に無理を聞いてもらうことになるだろう。
でも、今は『できる』という根拠のない自信があった。
俺が仕切るんだから、間違うはずがない。力が湧いてくる。
まったく安藤さんの言うとおりだ――さあ、この馬鹿げた案件を早く終わらせてしまおう。
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