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今日は水曜日、午後七時過ぎ。
週末でもなく、飲みに行くには少し早い時間。
日が暮れきっていない夏の黄昏時だ。並びには、時間が止まっているような場末感あふれるスナックと居酒屋、それに数件の飲み屋が軒を連ねている。こんな場所じゃ新規の客もめったに来ないだろうに、やっていけるのだろうか?
どうでもいいことをぐるぐる考えてしまうのは、さっきから足が止まってしまっているからだ。
覚悟はしてきたはずなのに、いざとなったら踏み入れる勇気が出なかった。
なんとなく居酒屋の前まで行ったり戻ったりしてうろうろしていたら、暖簾をばさりとくぐって人が出て来たので慌てて映画館に戻り、勢いで中に入った。
濃い緑色のガラス扉を押して入ると、ロビーはひんやりとしていた。夜になってもじめっとした暑さで噴きだしていた汗がすっと引いていく。
中は外観ほど古ぼけてもいない。すずらんのような形をした電球が柱ごとに灯り、趣のあるワインレッドの壁紙を照らしている。意外なことにゴミの一つも落ちていない、落ち着いた空間だった。
正面には何も入っていないガラスの陳列棚。
右手にはカウンターがあって、そこだけ煌々と明かりがともり、浮き上がるように存在を主張していた。
左手にある廊下は奥に続いている。奥からは何かくぐもった音が漏れ聴こえていた。多分いま上映中の映画があるのだろう。
ロビーには長椅子が置いてあったが僕以外誰の姿も見えなかった。とりあえず、人のいないカウンターをおっかなびっくり覗いてみる。
呼び鈴は置いてあるが、案内はない。カウンターの上には無数のチラシが几帳面におかれていた。
アダルト映画のリバイバル上映の案内や、クラブのゲイナイト、セーフセックスを呼びかける啓蒙チラシまである。最近のものだからそれなりに人の回転はあるみたいだ。
眺めていたら突然近くから声を掛けられて、僕は飛び上がるほど驚いた。
「興味ある?」
「あっ……」
顔を上げればいつの間に現れたのか、カウンターの向こうから身を乗り出すようにして、一人の男がにこにこと僕を見ていた。
年齢は四十代前半ぐらいだろうか、開襟シャツを着たごく普通の男性だ。
「いらっしゃい。初めての顔だよね? 」
「あっ。……はい」
しどろもどろに答える僕を、目を細めるように見てその人は言った。
「そんなに緊張しなくてもいいよ。冷やかしでなければ大歓迎。料金はそこに。今日はオールナイトだから朝までいても大丈夫だからね」
「あっ……そう、なんですね」
焦って尻ポケットから財布を取り出して千円札を男に渡す。
まいどあり、と言いながらお金をレジにしまった男は、カウンターに肘をつくとじっと僕の顔を見た。
「あの、あっち、からですよね?」
なぜそんなにも見てくるのか意図がわからず、そっと目をそらしながら僕はスクリーンがあると思われる方を指さした。
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