指輪と別れ  58

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指輪と別れ  58

  次の日になってもホワホワとした気持ちのまま、病室で暇を持て余していた。  左手を高く掲げて、薬指にあるピンクダイヤモンドの指輪を眺める。自然と口元が緩み一人でニヤニヤしてしまう。  綺麗にキラキラ輝くダイヤモンド。「高そう~」と思わず口から言葉が出た。  いかんせん、由緒正しき庶民なので、つい下世話な事を考えてしまう。  だけど、考えてみれば、病院で保管は危ない。検査とかで指からはずなないといけない時もあるはず……。  今日、美優の引き取りに朝倉先生が来るから、理由を言って預かってもらって、今は指に嵌めておくのが一番安全だな、と思った。  朝倉先生が来るのは夕方だろうし、それまでの時間を上手く使いたい。  タブレットが有ればイラストもイメージ画ぐらい描けるだろう。うん。  紗月が来る時にでもタブレット端末とペンを持って来てもらおうと、スマホのアプリを起動させ打ち込んでいると、将嗣が美優を連れてやって来た。 「おはよう」と声を掛け合い、美優を抱かせてもらう。  赤ちゃん特有の甘い香りが、私を幸せにさせる。 「美優~!」と言って、親バカ丸出しで顔を”へにゃ”っと崩して、会えなかった時間を埋めるように抱きしめた。 「将嗣は、夜は寝れた? 子守で疲れたんじゃない?」 「実は、ママ~、って、ひと泣きしないと夜寝ないんだよ」  将嗣は、眉尻を下げて頬をポリポリと掻きながら言いにくそうに告白した。 「えっ!?もしかして、ずっと?」 「やっぱり、ママが恋しいんだろなぁ。にわかパパじゃ、ダメみたい」 「美優~」  もう一度、抱きしめて、頭を可愛い可愛いとナデナデしてると 「指輪」と、将嗣が小さく呟いた。  眉根を寄せて、私の手を見つめる将嗣になんて声を掛けたらいいのか……。 「将嗣……」  私が声を掛けるとビクッと跳ねたように私を見た。 「あいつと結婚するのか?」  私の左手に光る指輪に視線を落とす。 「ん、ごめん」  将嗣の視線を追って俯いた私の視界が歪みだし、ポトリと涙が落ちた。 「ずるいよ。お前が泣くなんて……」 「ごめん」  今までの将嗣との出来事が走馬灯のように駆け巡り、胸が詰まって短く返事をするのが精一杯だった。腕の中にいる美優だって将嗣がいなければ、この世にいなかったはずだ。  自分の選択が、将嗣を悲しませることだってわかっていた。けれど、いざ目の当たりにして胸が詰まる。 「ごめん」  こんな言葉しか出ない。美優を抱いた手に力が籠る。  将嗣は、何も言わず私と美優を見つめていて、その間、私たち三人の空間の時が止まっているように感じた。  将嗣が、大きく息を吐き出すと、再び時間が流れ出す。  悲し気に揺れる瞳を向けられ、胸が締め付けられたが、言葉がみつけられずにただ見つめ返した。  将嗣が、もう一度、深呼吸をして私を呼んだ。 「夏希……」 「お前の事を泣かしてばかりで、ごめんな。俺が結婚していたのを隠していたのがバレた時も凄い泣いていたもんな」 「だって、不倫なんて思っていなかったから……」 「妊娠したのがわかった時だって、相談出来ずに泣いたんだろ」 「結婚している人に子供が出来たなんて、相談出来ないよ……」  将嗣は、ギュッと拳を握りしめ、ゆらゆら揺れる瞳からひとすじの涙を流した。 「ごめんな……俺が、ちゃんと前の結婚を片付けていたら夏希の事を泣かせなくても済んだのに……いろいろ……遅すぎた」  そう、私たち二人の関係は、いつも噛み合わない。 「夏希を取り戻したくて、美優の良いパパになりたくて、頑張ったけど結局、事故に遭わせて、イヤな思いをさせただけだった」  そして、私の指輪を見つめながら呟くように言った。 「アイツが夏希の事も美優の事も大事にしているの……わかるよ」  私に抱かれている美優の頭を撫でながら、涙で濡れた瞳を美優に向ける。 「すっごい我儘だってわかっているんだけど、夏希がアイツと結婚して、谷野夏希と谷野美優が、朝倉夏希と朝倉美優になるのは仕方ない。けれど、俺は美優の父親でいたいんだ。父親が二人になって美優が混乱するかも知れないけど、俺は美優の父親をやめたくないんだ」  美優の事を大切に思ってくれている将嗣を、美優の人生から追い出すような事はしたく無い、今、言える全ての想いを込めて将嗣に言葉を紡ぐ。 「この先、美優が大人になっても、結婚してどんな苗字になっても、将嗣が美優のパパなのは、ずっと、ずっと変わらないよ」 「……ありがとう」  将嗣の震える声が聞こえた。  もう、将嗣の想いが溢れて心が痛くて涙が止まらない。  泣きじゃくる私を将嗣も泣きながら抱きしめた。  ただ、二人でボロボロと涙をこぼしながらギュッと抱き合った。  「将嗣のこと……本当に好きだったんだよ」 「うん、わかっているよ。ごめんな。俺がいい加減だったから……。夏希が一番大変な時にそばにいられなくって……」 「……うん」 「もう遅いってわかっているけど、言わせて……。夏希、心から愛してる……」  将嗣に ” 愛してる ” と言われても ” ごめん ” としか返せないのが切なくて、声に出せずに将嗣を見つめた。 「最後だから……」  涙で濡れた瞳にキスを落とされた。  将嗣の熱い唇が、涙を拭いながら頬にすべり、そして唇に重なった。  将嗣の熱が唇から伝わる。胸が苦しくて、息が上手く出来ない。  唇が離れると冷たい空気を感じた。  ゆらゆらと揺れる瞳を見つめる。  今、離れたばかりの唇から言葉が紡がれる。 「夏希、幸せになれ」  将嗣は、力が抜けたようにフッと微笑んだ。  柔らかな笑顔に引き寄せられたように、美優が手を伸ばすと、将嗣はそっと抱き上げ頬を寄せる。  まるで宝物を包み込むように愛おしく抱き上げる様子に心が温かくなった。  美優は、高い高いをしてもらい、キャッキャッとはしゃぎ、美優を見つめる将嗣の瞳は慈しみに満ちていた。  たくさん泣いたけど、たくさんの笑顔もくれた。  美優を授けてくれた大切な人。  本当に大好きだったんだよ。 「将嗣……。ありがとう」  将嗣は、クシャと微笑み「ああ」とだけ言って、再び美優を抱きしめた。  そして、二人で初めて出会った喫茶店での事を懐かしく思いながら語ったりした。  窓の外は、日も落ちて病院の中庭の樹木に施されたクリスマスイルミネーションが点灯された。  もうすぐ、美優の誕生日。  陣痛で苦しんで、街路樹に寄りかかって、痛みに苦しんだあの日から1年が経つ。  自分の人生の分岐点になったあの日。  苦しんでいた私に手を差し伸べてくれた人が現れた。  人生何が起こるかわからない。
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