【6】マンジュリカの懊悩(一)

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 珠乃が待ち合わせ場所に着くと同時、霧のような細かい雨がさあさあと降ってきた。八月の暑気を払う細雨は前触れがなく、低く滞った雲の切れ間に太陽が覗いている。  どちらを選ぶべきか。濡れ色に輝きだした店頭と外階段を見比べながら、珠乃は菖蒲の人を待つに相応しい場所を考えた。  七日、午後二時、銀座のこのお店。目印は同じ菖蒲の封筒。三日前の朝、宿舎の窓に挟まっていた書き付け――なお、まっさらな紙ではなく新聞紙の切れ端だった――にはそのように書かれていた。  以降今日までに何度もそらんじた待ち合わせ場所だったが、そこは一階と二階で用途を分けている店で、一階は果物売り、二階はフルーツパーラーという形態を取っていた。  有名店なので珠乃も知っている。しかしどちらか指定がなければ外で待てばよい、という風に思っていた。まさか雨に降られるとは――待ちかねた初会だというのに、不運だ。  珠乃が視線をさまよわせると、 「構いませんよ」  と果物売りの店員が声をかけてきた。ここで待ち合わせしていることを察したのだろう。 「ありがとうございます」  珠乃は一礼して、道に開けた一階のひさしの下へと身を寄せた。店員が手にしている大ぶりの西瓜(スイカ)を見て、帰りに買っていこうと考える。宿舎内で食べるためだが、志摩子はともかくかえは喜んでくれるに違いない。  微風にも乗る雨粒に、店員は陳列棚を縮めようとしているところだった。誰も予想していなかった雨なのだ。これから会うあの人は、菖蒲の人は大丈夫だろうか?  ほつれ毛を整えて、珠乃は銀座の街並みに意識を向ける。狭霧(さぎり)が包む、のれんの降りた煉瓦造り、ガス灯の並び――景色がおしなべて霞む中、つと、知らない青年と目が合った。  青年はたった一人瞳を輝かせ、煉瓦敷きの歩道に立っている。視線を結んだ二人の間を、満員の市電が悠長に、しかし互いを見失わない時間だけ横切る。再び視線が重なると、青年は珠乃のいる方に歩み来た。
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