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曖昧に頭を下げた珠乃に対し、眉目の整った二十五歳の青年は、極めて疎ましそうに口の端を歪めた。
「我が家に何の用? もう僕と君とは、何の関わりもないはずだけど。……会いに来たいと思ってもらえるほど、君に何かしてやれた記憶はないな」
珠乃の元婚約者は、珠乃が自分のためにやってきたと思ったらしい。和紫は実妹である菫の背を軽く押しやると、自分を呼んだ使用人と共に屋敷に戻るよう促した。
「あの」
ワルツ・ステップのときと変わらぬ洒落た男の横顔に、珠乃は問いかけた。
「手紙をいただいたのです。私の両親に起こったことが、ここに来れば分かると――」
「手紙?」
妹と全く同じ語調で返し、和紫は珠乃の胸元を無遠慮に見た。菖蒲の花が刷られた白封筒が、彼の両目にはっきりと映る。
和紫はうんざりした様子で、首を横に振った。
「知らないし、今から知ったとしても協力する気にはなれないな」
「しかし……」
「帰ってくれないか。財産目当てででっち上げた手紙なんか見たくない」
財産目当て! 珠乃の心臓が軋みを立てた。
「そんなわけないでしょう……!」
「どうかな。……そもそも。仮に手紙が本当だとしても、もう君には関わりたくないんだ」
なぜそこまで、と言葉を失う珠乃に、かつての婚約者は突き放すように続ける。
「君のご両親があんな形で亡くなったことには同情するけどね。君の家が世間の噂の的になったおかげで、八祥寺家にまでおかしな人間が押し掛けてくるんだ。記者だか探偵だか知らないが、不躾なことを平然と……菫を見ただろう? 家の者はみんなうんざりしてる。疲れてるんだ」
「それは――申し訳ございませんでした」
和紫の話が理解できないことはない。八祥寺家にそういった野次馬が来るのは、ひとえに自分と和紫の婚約話が進んでいたからだ。
両親が死んだのが四ヶ月前。八祥寺家より婚約解消を言い渡されたのが三ヶ月前。もしかするとその頃から彼らは、世間より好奇の目を向けられ、あるいは中傷じみた詮索にも遭っていたのかもしれない。
珠乃は慎ましく身を引くつもりで、静かに草履の裏を石畳に添わせた。
「分かってくれたなら、帰ってくれるね?」
和紫はうなだれる珠乃に向かって念を押すように言う。噛み付かれないことが分かって気が緩んだのか、彼は野良犬か何かを追い払う仕草で珠乃を帰そうとし、
「これ以上話していたら、線香の匂いがうつりそうだ」
と気怠い顔でぼやいた。
「……っ」
情がない。婚約の過去は関係なく、珠乃は人間そのものに裏切られた気持ちになった。
和紫の顔を見ず、珠乃はきびすを返すと一目散に走り出した。背後から声はかからない。当然だ。
八祥寺家を囲う西洋風の柵が、石畳の道に黒い影を落としていた。等間隔に横たわる細い柵みを踏んでしまわぬよう、珠乃は必死で足を伸ばす。真昼の日差しが照る中、彼女は全力で、当てどもなく走り続ける。
帰りたいと呼べる家は、すでに失ってしまった。母が死に、父が死に、三人で暮らしていた屋敷も叔父一家に占領されて。
額を伝って流れてきた汗が、片方の目に染みた。菫に撒かれた塩が溶けている。珠乃は目尻から大きな涙をこぼすと、やがて走りをゆるめ、ふらふらと歩き出した。
幅の狭い土道に、大勢の人がせめぎ合うように闊歩している。もう自分がどこにいるのか、どこに行けばよいのか。珠乃には分からなかった。
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