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「私。そろそろ宿舎に戻らせていただきますね」
「花を取りに来ただけだったろうに、長居させてすまなかった」
「いいえ。こちらこそ、今日は大変お手間を取らせてしまいました」
二人の靴は同じ方向を向き、自動車の陰から静かに離れた。そのまま屋敷の角を曲がろうとすると、にわかに正面玄関の方が騒々しくなって、
「もういいです!」
と、娘の叫び声が初夏の夜気に放たれた。
「こんな夜遅くに、来客でしょうか?」
「心当たりがなくはない」
珠乃の問いに、藤二は眉根を寄せて答える。
「兄上の婚約者だ」
「和紫様の――婚約者?」
珠乃の胸に、一語では言い尽くせぬ嫌な風が吹いた。
「私のお願いも聞けぬような家などと、縁を結ぶのではありませんでした!」
「待って。……待ちなさい!」
珠乃は藤二の後ろに隠れるように位置を取り、方形のひさしが伸びる玄関の様子をうかがい見た。
「分かったよ! すべて君の言う通りにするから!」
「本当に? 私の好きな演奏家を呼んでくださる? 茶葉だって、私は英吉利から来るのが好きなのです」
せわしく揺れる火影と共に、知った声がする。
「ああ。すべて君の要望通りに準備させよう。だからどうか臍を曲げないで」
「臍なんて曲げてません!」
聞くに堪えない応酬を繰り広げながら、その男女はひさしを通り過ぎ、月明かりに姿を晒した。
「いいです。和紫様が私のお願いを聞いてくださるのなら、私、今度の茶会に出席してもよくってよ」
嘘、という言葉が口をついて出そうになり、珠乃は慌てて手で覆った。知っている。和紫はもちろん、相手の娘も。むしろ付き合いでいえば、和紫よりも長く、濃く、似たもの同士として――。
娘の腕を掴んでいた和紫が、わざとらしい甘やかさで語りかけた。
「よろしく頼むよ、涼華さん。八祥寺と菱村の繋がりを深めるには、今度の茶会が絶好の機会なんだ」
「和紫様と私、ではなくってね。……まぁいいでしょう。私、晴れて本家の娘になれたのですもの。楽しませていただきます」
涼華と呼ばれた娘は偉ぶった態度で言うと、和紫の手をやんわりと払った。その厳しい振る舞いはともかく、華奢な体型は珠乃の知る頃から何も変わっていない。
菱村涼華。珠乃を本家から追い出した叔父一家の長女が、和紫の今の婚約者となっていた。
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