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【4】菱村の双つ花(一)
最後に見た母は落ち着きに欠けていた。よそ行きの羽織をいそいそと背負い、畳に敷かれた紅い絨毯を白い足袋で踏みしだいていた。
「お母様?」
夕飯を終えた後のことだった。社交で忙しい父はともかく、夜に母が出歩くのは珍しい。
「ああ、珠乃」
珠乃が呼ぶと、母・蘭子は快活な笑顔で振り返った。
「これから少し出掛けますから、お父様とお留守番をよろしくね」
「お母様は、どこに行かれるのですか?」
「横浜の洋裁店よ。……どうやら貴女のドレス、注文と違ったものを受け取ってきたみたいなの。これからお店に行って、注文通りのものに取り替えてきますからね」
「もう遅い時間です。明日になさっては?」
「大丈夫よ。電話でお伝えしたら、お店を開けて待っていてくださるということだから。戌谷さんにお願いして連れて行ってもらうのよ」
戌谷とは、菱村家が雇う運転手の名前だった。家の敷地内に住まわせており、夜でも急用ができた際はこのように車を出してもらうことがあった。
「それでしたら……」
戌谷一人を遣わせてはどうですか、という言葉を、珠乃は続けられなかった。母は娘に常々、使用人に頼む仕事は勝手にならないようにと教えていた。その夜のトラブルは、母にとっては自身の我が儘であり、せめて付き添うのが当然だと思ったのだろう。
母がその日のうちに取りに行きたい理由を、珠乃は知っていた。
「私、明日のお茶会は別のドレスで参りますわ。ご無理なさらないでくださいませ」
娘のなお引き止める言葉に、母は最後までうんと言わなかった。
「いいえ。どうしても着て行って欲しいの。せっかくのお誕生日だし、和紫さんともお会いするでしょう? 朱鷺色の薄い生地をたくさん重ねた、優しいドレス。貴女のやわらかい顔立ちには、きっと似合うわ――」
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