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「いずれにせよ、菱村本家は叔父が継いで、その後は叔父の息子……涼華の弟が続くことになっていたのよ。わざわざ手を汚す必要なんてないのだわ」
「ふうむ」
「あとはどうしても涼華と和紫様を結婚させたかったという可能性だけど……その線も薄い気がするのよね」
先日の二人の衝突を見ても、とても仲が良いとは思えない。涼華の婚約のために父母を殺したのなら、叔父だってもう少し彼女に言い含めるだろう。
「あの婚約はどちらから言い出したのかしら? ……と思ったけど、どっちもかもしれないわね」
重工業で今をときめく八祥寺家は、社会的に見れば最高の嫁ぎ先だ。八祥寺家にしても菱村との縁は捨てがたく、涼華との話が進んだために、珠乃との婚約を解消したのだろう。両親を亡くした珠乃よりは、本家筋に入った涼華の方が後ろ盾がしっかりしていて、未来がある。
「叔父一家にとって、婚約はついでってか。ふううむ……」
珠乃の話を熱心に聞いていたリコは、ことさらに長い息を吐いた。
「これは動機が不十分、ってやつかぁ」
「証拠も不十分だからね、言っておくけど」
同じ部屋で診察机に向かっていた、黒田医師が首をひねって振り返る。
「記録簿の記帳終わり。定期診察お疲れ様でした」
「先生、ありがとうございます」
珠乃は椅子に座り直して、黒田医師に体を向けた。今日は午前のみだが外出の許可を取れたので、こうして術後の経過を見せに来ていたのだ。
「念のためにお聞きしますけれど。私、以前の面影はもう残っておりませんよね?」
「大丈夫」
いつものように目元にくまを浮かべ、黒田医師は太鼓判を押した。
「顔はまったくの別人だから。仮に接触したとしても、声が似ているな、とかそんな程度だと思うよ」
「よかった。涼華に――従姉妹に正体がばれるわけにはいきませんもの」
顔を変えて八祥寺家に潜入しているなどと知られたら、世間的にもおしまいなはず。存在を偽り、元婚約者の家に仕える――あの手紙の存在があるからこそ、珠乃も自分の行為を正当化できるのだ。
「ともあれさっきの話だけど」
黒田医師は脚を組み直し、先ほどの叔父一家の話――というよりは、リコの動機不十分という言葉に言及した。
「動機がなければ、衝動的な犯行だったか。そもそもご両親の死は、犯人にとっても想定外の出来事だったかもしれないね」
わざわざ話を戻したからには、何かあるのだろうか。珠乃が冴えた視線を投げかけると、黒田医師は声を若干くぐもらせた。
「お父さんの自殺の件。僕の同業者の繋がりでね、不審なことが分かったんだよ」
「――どうぞ話してくださいませ」
彼の同業者というと、医師になる。気遣いを見せた黒田医師に、珠乃は迷わず続きを促した。血生臭い話が出てくることは、はなから承知でやっている。
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