【1】大正華族の摘まれ花

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 ――お前の母様が心中したよ。  華族・菱村(ひしむら)家の一人娘である珠乃がそう聞かされたのは、彼女の誕生日の朝だった。  なぜその日でなくてはいけなかったのか……という嘆きはなく、なぜ母の心中を伝えているのが父なのか、珠乃の頭をしばらく占めた思いはそれだった。  母の相手は、誰に聞かなくても分かった。菱村家で抱えていた運転手が、同じ夜の同じ場所、果ては同じ車内から見つかったのだ。川より引き揚げられた車の中に、濡れ髪の絡まった男女の肢体。  心中が美談にもなってしまう、大正()の世の中である。女主人と運転手の駆け落ち、情死といった話は珍しくなく、誰もが心中を疑わなかった。  母と長く連れ添ったはずの、父までも。  次いで父が自死したのは、それから二十日後のことだった。  以降、自分の身に降り注いだ様々な出来事を、珠乃はよく覚えていない。傷心を放置し、魂の抜けたように日々を過ごして、それがいけなかったのだろう。  気が付けば本家は叔父一家のものとなり、珠乃は療養という名目で帝都から遠くに移住させられた。  八祥寺和紫との縁談がなくなったのも、同じ時期。十七の彼女は女学校すらやめた。 「……あっ」  つと右足の指に違和感を感じ、珠乃は前のめりになった。草履の鼻緒が切れたのだ。酷使した後の足では踏ん張れず、珠乃はそのまま往来で転んでしまった。 「そりゃあ不吉だな、お嬢ちゃん」  これ以上悪いことが起こるのか。土の上に四つん這いになった珠乃は、声のした方に首を回した。 「鼻緒が切れたんだろう? どれ、俺が直してやろう」  そう言って優しげに手を差し伸べる男は、珠乃の父親と同世代に見える。口周りの無精ひげ、くたびれた着流しの姿はけして清潔とはいえなかったが、とにかく親切そうだった。 「……ありがとうございます」  心身疲れ切っていた珠乃は、考える前に男の手を取った。そのまますくわれるように立ち上がると、男は珠乃のやわい手をしっかりと握り直し、どこかへ向かい出す。 「そこの裏路地に俺の家があってな、商売やってるんだ。……お嬢ちゃん、なんだか迷子のように見えるが。帰る家はあるのか? 親御さんのせいで帰りにくいなら、俺の店でしばらく面倒見てやっても――」  ああ、きっとこれはよくないやつだ。珠乃はすぐに失敗に気付いたが、固く繋がれた手はびくともしない。 「遠慮するな」  あくまで親切ぶる男にぞっとした。恐怖を不感のものとするには……珠乃は一転して、無気力に考えた。抗ったところで、どうなるのだろう?  そもそも、この手を振り払ってどこに行きたいのか。もう、行き先はどこでもいいのではないか――? 「待ちなよ」
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