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八祥寺家に戻った珠乃は、すぐに宿舎でメイド服に着替えた。下ろしていた髪を一つに結わえ、共用の姿見で身だしなみを確認すると、同僚の指示で本館のバルコニーへと直行する。聞くに今、兄妹がそこで茶を飲んでいるというのだ。
日曜の午前十一時半。昼食の時間が迫っているが、兄妹は席を立たない。というのも、つい先ほどまで涼華がいたかららしい。珠乃が仕事の詳細を求めると、同僚は小さな声で、
「ご兄妹が荒れているから、単に人目が欲しいのよ」
と珠乃に耳打ちした。初日のかすみ草の一件で目立ったとはいえ、珠乃は元々控えめな働き者だ。謙虚な姿勢で学ぶので、志摩子以外のメイドにはわりかし受けが良い。
……しかして。従姉妹の涼華は今日も我が儘放題だったのか。珠乃がバルコニーに繋がる扉を引いた途端、
「和紫お兄さま!」
という菫の叫び声が耳をつんざいた。
「なんなんですのあの女は!? これでしたらまだ、菱村珠乃の方がましでしたわ!」
はぁ、と珠乃は一時動きを止め、心の内で毒づいた。よく言うわね、あれだけ盛大に塩を撒いてくれたくせに……。
「今だけだ」
と和紫の声がした。珠乃は音を立てないように木戸を閉め、残りの茶を啜っているらしい兄妹の様子をうかがう。二卓置かれた円テーブルの片方で、菫と和紫が椅子を並べている。
「そうかしら? お兄さまって結局、女だったら誰にでも優しいんだわ!」
「……菫」
口付けたカップをソーサーに戻し、和紫がたしなめる。同時に彼は周囲に目を配ったので、バルコニーに控えていた二人のメイドや、珠乃とも、ほんの一瞬視線を交えた。
和紫は再び妹に向くと、苛ついた様子で前髪を掻き上げた。
「あのさ、どうして同じ菱村なんだと思う? ただでさえ周りにからかわれているんだ。八祥寺のために結婚する、こっちの身にもなってくれよ」
珠乃は壁際にそっと差し足で移動しながら、それはごもっとも、と考えた。同じ家の中で婚約者を鞍替えする。ない話ではないが、外聞はよくない。
「……でも」
菫は少女らしく、唇を尖らせた。
「私だってきっと、お家のために嫁いでいくのよ」
それきり彼女は大人しくなって、ティースプーンで冷めた紅茶をかき混ぜ始めた。かちゃかちゃといたずらに鳴る白磁の打音が、蝉の音と不器用に絡まり合って床に落つ。その煩わしい奏でに、珠乃の頭に生活という言葉が浮かんだ。
彼らの事情は探りたいにしろ、いるだけで疲れてくる。この空気、人目が減ったらさらにひどいものになるのだろうか?
珠乃は横に視線を流し、バルコニーの奥を見た。もう一つのテーブルを使い、藤二が茶を飲んでいる。
テーブル一卓につき、用意された椅子は三脚ずつ。でなくとも三人で囲めばいいのに、藤二は空いている椅子に行かないし、和紫や菫も呼び寄せない。
かすみ草の晩餐以降、藤二はひたすらに静かだった。和紫の反応からうっすらと勘付いてはいたが、元々そういう人らしい。兄と妹の話を耳に流し、ただ静かに庭を眺めている藤二に、珠乃は無性に問いたくなった。
貴方が強さを求めるのは、ここにいる誰にですか――?
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