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「さてと。いったん宿舎に帰ろっか。皆様出掛けられたし、夕方まではゆっくりできるよ」
片付けが終わると、かえは珠乃を宿舎へと誘った。急な仕事は大抵が兄妹――厳密には和紫と菫から降ってくるらしいので、彼らがいない今お屋敷は平和だという。
帝都の中心地ながら、八祥寺家は広い敷地を持つ。中にいると街の喧噪は遠く、閑散期の避暑地のような、空虚とは違う自然の静けさに満ちている。
「あらら」
とかえが、宿舎を見やってから言った。
「志摩子先輩! お疲れ様でございます」
「――お疲れ様でございます」
「あら二人とも。お疲れ様」
宿舎の玄関口で、志摩子が気さくに振り向いた。
二人、ということは自分も入っているのかしら? 珠乃は怖くなって、彼女が何かしているらしい足もとを覗いた。麻の布が敷かれており、とある花がその上に、一種のみ大量に積まれている。
驚き入る珠乃の隣で、かえが小首をかしげた。
「何をされているんですか? 手伝います?」
「別にいいわよ。今度来る演奏団体の方から届いたの。八祥寺家の皆様とは別に、私たちメイドにですって」
メイド宛。だから志摩子は機嫌がいいのだろう。珠乃はどうしても聞きたくなり、控えめに彼女に問うた。
「涼華様……菱村のお嬢様がご希望された演奏家の方でしょうか?」
「さぁね」
志摩子は何でもない方向に目を逸らした。隠したいのではなく、興味がなくて本当に知らないといった風である。
「メイド全員に配ろうと思っていたから、貴女ももらっていっていいわよ」
「――ありがとうございます」
雹か、槍でも降るのではないか。珠乃はそれが茶会当日でないことを祈ったが、今はそれよりも。
届いた花は本当に大量だったので――片腕いっぱいにそれを抱え、珠乃は自室につくなり熱い吐息をはいた。
「どうしましょう」
そう言って胸元の、菖蒲の花束を見る。例の手紙に描かれていたのは、まごうことなくこの花だった。
今度訪れる演奏団体。明らかに時期の過ぎた菖蒲の花を、わざわざメイド宛に届ける……偶然だろうか?
珠乃が八祥寺家に潜入したことを、手紙の送り主は知っているのかもしれない。そしてもしかすると、今度の茶会に姿を見せて――。
珠乃の呼吸に合わせ、その紫の花は息づいたように揺動する。花びらの網目一つ一つを指先でなぞると、喜びのような不安のような、えも言われぬ情動を彼女にもたらした。
珠乃はふっと我に返り、窓の光に顔を上げる。珠乃には初めてだった、メイド用の小さな部屋。少なくとも週末までは、ここは菖蒲に満たされる。
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