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【5】菱村の双つ花(二)
叔父一家が来た。ということを、珠乃は新品の自動車で知った。
当然だが、茶会までに氷雪の類いは降らず――八月初めの眩い太陽が、帝都の空に誇らしげに輝いている。青空に生る入道雲がうずたかい。まるで叔父の格式高い仏蘭西車が、意気揚々と街に吐き出してきた煙跡のようだ。
……叔父の浪費の最たる理由は、その自動車愛好にあったのだ。珠乃は思い出して、頭が痛くなりそうだった。表情を繕い、玄関ホールの隅で他のメイドに混じっていると、
「ようこそ」
とモーニングコート姿の、初老の紳士が叔父たちを出迎えた。八祥寺家当代、和彰である。
「どうも! 本日はご招待いただきありがとうございます」
オープンカーの上からそう挨拶した叔父は、大変な上機嫌だった。彼は壮年らしくない軽やかな足さばきで助手席を下りると、妻子が乗る後部座席のドアを直々に開け、家族一同をホストの前に並ばせる。もちろん珠乃も知っている、夫人、令息、そして令嬢の――。
「これはお美しい」
涼華を眺め、和彰が感嘆の声を上げた。
「とてもよくお似合いですな。どこの洋裁店で仕立てられたので?」
叔父が答えられなかったので、涼華がしとやかに伝えた。
「横濱元町にある洋服屋です。外国人の皆様が御用達のお店ということで……」
「それはいい」
和彰は根っからのハイカラ趣味だ。彼は和紫に似た甘い面立ちを綻ばせると、
「日本の女性もね、もっと洋装をするべきだと私は思うのだよ。顔立ちだの何だのいう人間はね、目が古いんだ。もう何年後か、きっと近いうちに日本人女性にも洋装が広がるよ。おそらく君もね――」
「貴方」
と当主の饒舌を止めたのは、妻の菊代だった。
「そのお話は後になさっては? ご挨拶を超えてしまいますわ」
「――ああ! 確かにそうだ」
和彰は振りかぶり、己の自慢だろう洋装の貴婦人に寵愛の視線を送った。
「しかしながら、これだけは言わせていただきたい。涼華さんは大和撫子であるからか、朱鷺色のドレスがとても似合う。よいものを贈られましたな、久嗣殿」
久嗣とは叔父の名だ。和彰の反応が上々だったので、叔父は有頂天になり言った。
「涼華も皆様の前では大人しいのですが。家では和紫殿にお見せしたいと、娘らしくはしゃいでおりました。なかなか素直になりませんが、そういう可愛いところも見ていただきたい」
「――ええ。見ていますよ。父があんまり彼女を口説くので、妬いていたところです」
当主の横に進み出て、和紫が微笑む。外向きの誠実そうな笑顔に、多少の洒落を交えた話し方。彼との婚約の際、珠乃は学友たちから異様に羨ましがられていた。家柄を抜きにしても、彼はよくできた青年なのだ、外面は。
オパールグリーンの新車を運転手に任せ、一同は玄関ホールを過ぎてゆく。珠乃は頭を下げながら、涼華が引きずるドレスの裾を静かに見つめる。
――朱鷺色の薄い生地をたくさん重ねた、優しいドレス。貴女のやわらかい顔立ちには、きっと似合うわ――母が死ぬ直前の会話が、珠乃の脳裏にまざまざと蘇る。
母の衣装部屋に置いてあったあのドレスは、涼華の元に渡ったのだ。彼らの姿が消えた後も、珠乃はしばらく面を上げなかった。
誰と目が合っても、うまく笑える気がしない。
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