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――自分の名前。珠乃は驚き、屋敷の陰に身を隠した。今は別人としてここにいるので、見つかっても何ら問題はない。が、朱がいると知られた場合、この話は途切れてしまう可能性があった。
「……うん?」
予想外の名前に驚いたのは珠乃だけではない。彼女の叔父はやや訝しむ顔になり、輝かしい愛車のボディに手を添えた。
「珠乃さんは不幸にも心を病んでしまったからね。熱海で療養させているんだよ」
……いいえ叔父様、ここにおりますわ。屋敷の角から、珠乃はちらりと顔を出す。新車を庇うように伸ばしている腕が、ずいぶんと憎たらしい。たとえ頼まれたとて、本家の財を奪うことなどしないというのに――。
「そうですか」
と、やけにあっさり藤二は言った。続く言葉はなく、あるいは叔父の説明を待ったのかもしれないが、結局珠乃の話はそれきりだった。大体お調子者の叔父が、珠乃のその後を気にしているはずがないのだ。
話題は再び自動車に移ったので、珠乃は足を引き返し、正規の道で調理場へ向かった。そこで新しいティーセットを手に入れても、珠乃の頭には藤二のことがあった。
朱としてならともかく、珠乃の姿で藤二と会った記憶はない。彼にとっての珠乃は、兄の元婚約者。ただそれだけのはずなのに、彼は何を思って自分の名前を出したのだろう――?
移動の間に考えていたが、答えは出なかった。主会場に戻れば、バイオリンとチェロの二重奏が美しく、蝉の音を殺して優雅に流れている。
パラソルの下に人はまばらで、場は立食形式に変わっていた。参加者はティーカップや扇子を片手に、社交に花を咲かせる。藤二や叔父も帰っており、それぞれ別の輪の談笑に混じっているようだ。
室内に移った者もいるらしく、メイドの仕事はひとまず落ち着いていた。言いつけに備え珠乃が辺りをうかがっていると、かえが静かに寄ってきた。
「朱ちゃん」
「どうしたの?」
「和紫様が戻ってこないの」
珠乃の質問に、かえは寂しそうに答えた。
「結構前にシガールームに行ったきり。他のお客様はそちらと会場を行き来してるのに、和紫様だけこもってて……」
かえは唇をすぼめて、その特別な部屋を見やる。シガールーム――和訳して喫煙室だが、そこは主家と客人専用の、使用人は出入りを禁止された場所だった。よって内装は隠されていたが、庭に面したタイル張りの外壁は屋敷内でも一等エキゾチックで、メイドたちの視界には常に引っ掛かる。
部屋には縦長の窓硝子が並んでいるので、人影の程度ならば珠乃たちにも知れる。今は四人ほどで使っているらしいが、その内の一人が和紫なのだろう。
「どうして庭園にいらっしゃらないの?」
客人も入れるとはいっても、煙草を嗜む人は限られている。ホスト側の和紫が、同じ客人ばかりといるわけにはいかないはずだ。
和紫が引きこもっている理由に、かえは一人の名前を出した。
「それは、藤二様がこちらにいるから」
「藤二様?」
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