856人が本棚に入れています
本棚に追加
珠乃はかえの視線を追うようにして、主会場にいる彼を見た。父や兄にも劣らない美々しいスーツを着た八祥寺家の次男は、今は公爵夫妻を一人でもてなしている。
物腰こそ柔らかくはないが、藤二の受け答えは真摯で高潔だ。落ち着きがありながら、二十三の年齢に相応しい殊勝な態度も備えている。この場のみならず、どの社交場へ出ても好印象を受けるに違いない。
かえは声量を控えめに、しかし噂好きの抑揚で言った。
「藤二様。今までは軍のお仕事とか言って、公の場は必ず欠席されてたの。ご自分の家の会にだって、出席されるのは初めてなんだよ」
「そういえば……」
そういう人だった、と珠乃は彼の社交界での影のなさを思い出した。
「やっぱり朱ちゃんが来た日の夕食は、藤二様の宣戦布告だったんだ」
「……穏やかではない言葉ね」
「だって本当のことだもの。藤二様が喋り始めたときの和紫様のお顔、朱ちゃんも見たでしょ?」
和紫を好いているにもかかわらず、かえはうすらと楽しそうな顔をする。
「焦ったんじゃないかなぁ、和紫様。今までずうっとだんまりだった藤二様が、突然みんなのいる前で意見して。ましてわたしたちメイドの機嫌を取るし、あの場にいた人は誰だって、藤二様が跡継ぎに立候補されたんじゃないか? って思ったんだよ」
「……私、跡継ぎは和紫様に決まっているものだと思っていたわ」
少なくとも珠乃が婚約していたときは、そのように聞いていた。
「以前はそうだったけど。婚約のお相手が変わってから、ご当主も菊代様も静かになっちゃったというか」
当然かえは、朱の出自を知らない。珠乃がすました顔で話を聞くかたわらで、かえは気楽な調子で喋り続ける。
「菱村家が名家とはいえ、あんなことがあったからね。涼華様との婚約は間違いなく和紫様の武器だけど、藤二様が跡目争いに名乗りを上げたら。八祥寺家は分からなくなるよ」
ふむ、と珠乃は指を顎に添えた。この話が本当ならば。珠乃の両親の事件がきっかけで、和紫が跡目を継ぐ予定は狂ったことになる。
……しかして、あの夕食での藤二の行動は、周囲の目には打算込みのものと映ったのか。彼との会話を振り返り、珠乃は一掬の寂しさを覚えた。自分への優しさからでなくとも、あれは家を想っての行動だった。
「――たとえ、これから藤二様が跡継ぎを目指すとして」
と、珠乃は藤二をまっすぐに見てから、シガールームへと目を転じた。
「藤二様が宣戦布告したのなら、和紫様は受けて立てばいいじゃない。拗ねて引きこもるって、なんだか……」
「カワイイよねぇ」
かえは嫌味のまったくない、むしろ好意に溢れた笑顔で言った。やや歪……一介の女中が主人に向ける態度にしては変わっている。
珠乃は困惑し、かえが熱い視線を注ぐシガールームから目を逸らした。すると、裏の花垣が茂る中に客人でもなさそうな、見知らぬ人影を発見した。
「あら?」
「なぁに?」
「えっと――」
珠乃の目に留まったのは、十代中頃に見える子どもだった。瞳を凝らし、ようやく男の子だろうと思う。というのも、その子は髪を一つに束ねている上に、黒っぽい洋装を葉陰に馴染ませていた。バイオリンのケースを担いでいるから、演奏者の一人だろうか? けれど――。
珠乃が怪しんでいると、ばちり、その少年と目が合った。瞬間、少年はげっと焦る顔になって、身をひるがえす。
「かえちゃん、ごめんなさい」
珠乃はぴんときて、
「ちょっと抜けるわね」
と同僚に言い置きし、一人走り出した。ちょうど楽団の二重奏は終わり、二つの弦楽器の余韻にうっすら、蝉の音が乗りかかっている。
最初のコメントを投稿しよう!