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「もし、そこの子!」
庭園の際を目立たぬように駆け抜け、珠乃は少年を追う。試しに呼んでみても、彼は振り返ってくれない。鳥の尾のような髪の束を揺らし、屋敷の周囲を逃げる、逃げる。小さな体と一緒に動く楽器ケースが危なっかしく、珠乃は別の意味でも心臓が跳ねた。
――どうしてこんなにまで逃げるのだろう。菖蒲の人とは関係ないのかしら?
しかし本当に演奏団体の人間ならば、そもそも逃げ出すなんてしないはず。珠乃が今朝、進んで奏者たちを控え室に案内したときも、彼のような小柄はいなかった。
忙しい茶会でも、珠乃は一時たりとも忘れていなかったのだ。手元に届いた菖蒲の花。自分の季節を揺り動かす、無二の紫――会えるなら、今日だと思っていたのに。
華族の広やかな敷地を半周ほどしたときだった。少年の後に角を曲がった珠乃は、不用意にも人にぶつかった。
「――あっ!」
「……あら」
姿勢を一切乱すことなく、相手は珠乃を天から見る。彼女はいつでもヒールを履きこなす上に、欧米の婦女のように背が高い。
「貴女は確か――名前を朱といいましたね」
当代の妻。菊代は涼しい目をまたたかせると、珠乃にこう投げかけた。
「こんなところで何をしているのですか?」
裏方での鉢合わせだったが、その振る舞いは表と変わらない。輝を放つような凜然とした態度に、珠乃は気圧されながら言った。
「迷子らしい奏者を見かけたので、探していたのです。こちらに楽器ケースを抱えた男の子が来ませんでしたか?」
「さぁ。見ていませんね」
じっと珠乃を見つめていた菊代は、そう言って背後を振り返る。
「この先はもうあの人の別館です。何もありませんし、誰かが迷い込んだとしてもすぐに帰ってくるでしょう」
「そうですか」
珠乃は夫人の細い体を透かすようにして、その石造りの小さな洋館を見やった。菊代が首の動きだけで示した離れは、今は高齢の和彰が一人で住んでいるのだった。
「茶会もそろそろ終わります。客人のお帰りの際には、メイドは総出で支度をお世話しなくてはなりません。早く戻りなさい」
「はい」
珠乃は恭順にうなずき、静かに言葉を添えた。
「すぐに戻ることにいたします」
たとえ今日、菖蒲の人に会えなかったとしても。もう何度読み返したか分からない、あの手紙の存在が消えるわけではないから――そう折り合いを付け、珠乃は来た道を戻ろうとした。すると、
「貴女」
と菊代が珠乃を呼び止めた。
「メイドの仕事はいかが?」
「……やりがいがあります。主家の皆様のために、精一杯頑張らせていただく所存です」
「そう」
珠乃の返事を聞き、菊代はすっと双眸を細めた。機嫌を崩したのではなく、何か懐かしいものを目にする顔。その柔和さを保ったまま、菊代は珠乃に伝えた。
「メイドが色々なものを目にする理由は……メイドもまた、その渦中にいるからなのですよ。気を付けなさいね」
秘した目的を知られたかと思い、珠乃は咄嗟に息を殺した。恐れる気持ちで菊代の機嫌を探ったが、その眼差しから軽蔑の色は読み取れない。
夫人と瀟洒な離れの間に、淡い花びらのようなものがひらめいている。珠乃が再び菊代を見透かすと、それはつがいのシジミチョウだった。
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