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「申し訳ございません。馴れ馴れしかったでしょうか?」
何が起こった――という疑問は、今は考えない方がいいのだ。衣服を汚されてもうろたえることなく、珠乃はまっすぐに謝った。
「……」
涼華は返事をせず、ただ珠乃から目を逸らす。その横顔には、ひどく哀しげな孤独が滲んでいる。
「ひえっ」
参加者の婦人が短い悲鳴を上げた。うら若い菱村のご令嬢が、開催家のメイドにわざと紅茶を引っ掛けたのだ。視界の端にでも入ったならば、驚くのは当然のことであり。
次に事態を知った和紫が、早い歩みで寄ってきた。
「涼華さん。どうしたの」
紙煙草の香りをまとわせながら、青年は涼華の背中に手を回す。まだ扱いあぐねているために、触れるか触れないかの曖昧な手付きである。
「このドレス、着苦しい。もう脱いでしまいたい」
「会もあと少しだ。僕が隣に付いているから、何とか我慢してくれないかな。……それが無理なら、本館の部屋で休むかい?」
九歳差の婚約者をなだめるように、和紫は言う。後半は涼華を放置していた彼でも、その口調は優しかった。実際彼女は具合が悪そうで、血の気が引いた顔をしていた。
「……」
わずかに身をすくめながら、涼華は和紫と珠乃を交互に見る。迷っているのは傍目にも明らか。程なく和紫が涼華の背に触れると、菱村本家の娘は仕方なさそうにまぶたを伏せた。
「分かりました。せっかく来たのですもの。最後までおります」
「よかった」
涼華の返事を聞くなり、和紫は彼女をみなの前まで連れて行く。珠乃に何も言わなかったのは、取るに足らないメイドだからか。
あちらへ行ったら人前で、うちのメイドが粗相を――などと涼華をかばうのかもしれない。逆にそのくらいしてくれなければ、涼華の婚約者としてはどうかと思うけれど。珠乃はそっと息を吐いて、去って行く二人に背を向ける。
自分の白エプロンを見下ろせば、赤い紅茶の染みに混じって、溶け残った砂糖の粒がきらきらとちらついた。快くはないが、客人の前で払うのもためらわれる。するとちょうどよく、志摩子が来た。
「朱さん」
珠乃を嫌う彼女もまた、一部始終を見ていたのだろう。嘲笑の混じった声だが、しかし珠乃の名前は覚えてくれたようなのだ。
「早く会場を出たらどう? 染みの付いたメイド服でうろうろされても、主家の恥よ。みっともない」
彼女の言葉は珠乃をいびりたいだけのもの。しかしそれが、今の珠乃にはかえって好都合だった。
「お心遣い、ありがとうございます。一度下がらせていただきます」
珠乃はお辞儀をすると、志摩子をかわすようにして宿舎に帰る。一度と言ったが、それきり茶会にも片付けにも顔を出すことはなかった。というのも着替えの間にかえが来て、
「今日はもう休んだ方がいいだろうって」
「どなたが?」
「藤二様。志摩子先輩には私から伝えておくからね」
と珠乃を励ますように告げ、意味深な笑顔で戻っていったからだ。
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