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――それは予感していたのではなかった。誰かを待つ気持ちはなく、ただ物寂しさに浸れたら。珠乃はそう考えて、メイドたちが就寝した夜中、自室の窓辺でぼんやりと星を眺めていた。
繁華街を過ぎた丘の上。珠乃が少し首をかしげば、木々を透かした碧色は広く、そちこちに黄みがかったグレーの雲がかすんでいる。帝都の夜は明るい。月が出なくとも、十分なほど。
菖蒲の人に会うことは叶わなかったが、今の珠乃はそれよりも涼華のことが気懸かりだった。あの調子で婚約していて大丈夫なのだろうか。紺碧の帳に散らばる星は、砂糖のように微々とし、それでもひたむきに輝いている。
飾り窓を開け放してしばらく。頬杖をついていた珠乃は、風が起こしたのではない、枯れ枝がぱきんと折れる音を聞いた。
何、と珠乃がそこを見るのと、彼が現れたのは同時。今度もしっかり目が合ったので、珠乃は先手を取ろうとすぐに声をかけた。
「貴方。昼間に逃げた方ね」
「おう」
気楽に挨拶を返すのだから、今の目的は珠乃にあるらしい。立ち木の裏からそろりと出てきた少年は、昼間に見た洋装から一転、着流しに雪駄、カンカン帽といった出で立ちである。鳥の尾のような長い髪は変わらずで、帽子の下からしなやかに伸び、時折艶を放って夜闇にひらめく。
「女中――じゃない、この家ではメイドっていうんだっけ? メイドの仕事はどう?」
「……菖蒲の花を届けたのは貴方なの?」
「ああ。どれもこれも、届けたのは俺」
予想よりも低い声で、彼はくつくつと喉を鳴らす。地面は宿舎の床よりも低いので、彼が珠乃を見上げる形になった。
「まさか自ら潜入するなんて思ってなかったからさ。俺は楽しくって仕方ないよ。菱村珠乃」
少年は不遜な態度で笑いながら、窓の桟に自分の手を引っ掛ける。長く伸ばした五指の爪は、少なくともバイオリニストのそれではなかった。
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