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そう言って両の拳を握りしめると、小さな男子は切なそうに珠乃を見上げた。何か思うところがあったのか、あるいは珠乃の表情が移ったか。彼は前髪を払い、そっと珠乃から視線を外す。
「日中追いかけられたときに、そうだろうと思った。だから一度帰って、聞いてきたんだよ」
「そのお方に?」
「ああ。菱村珠乃は、きっとあなたに会いたがってますよってな」
これは思ったよりも話が早そうだ。この少年、態度はなかなかに不遜だが、どうやら思いやりに欠けているわけではない。珠乃の期待を汲み取った彼は、口の片端を上げてこう言った。
「『貴女がお許しくださるのなら。一度日時を決めて、お会いしましょう』……だってよ」
「わ――」
大きな声を上げそうになった珠乃は、片方の手で口を押さえた。端的に言って、とても喜しい。
「そういうことだから」
寝巻きを着、少女らしく頬を染める珠乃を、彼は気まずい目で見やる。
「あんたの都合がいい日時を、ざっとでいいから俺に教えてくれない? 俺が仲介役になって、またよさそうな日時を伝えに来るから」
「ありがとうございます」
珠乃は身をよじり、すぐ側にあった卓の引き出しから書き付けを取り出した。住み込みのメイドに決まった休日はないが、それでも外出しても構わない日・時間は存在する。
書き付けておいたその日時を参考に、珠乃はいくつかの候補を少年に教えた。
「ありがと。この中から決めてもらうから、追って知らせるまでは空けとけよ」
「ええ、もちろん」
「じゃあ、俺はそろそろ帰ろうかな」
ひと仕事を終えた相手はそうのびやかに言うと、懐中時計を手に寄せた。星明かりを頼りに文字盤を覗く少年には、若々しい物語的な風情が漂っている。気分が高揚している珠乃は一緒にそこに入ろうとして――はっとした。
「そういえば。こんな時間に一人で歩くのは感心しませんわ。親御さんは大丈夫なの?」
珠乃の知る世間においては、彼ぐらいの年頃ならば男子だろうと夜は危うい。
「どうにかしてお迎えとか……私も出歩くには勇気が要るけれど、近所まででしたらできなくはないと思うの」
そうやって年上らしい気遣いを見せた珠乃に、彼はじとり、恨みがましい目を向けた。
「……じゃない」
「なぁに?」
「子どもじゃない。俺は成人済みで、あんたより年上だ。確か十七歳だったろ? 俺は二十歳」
珠乃、自分と順に指をさし、彼は一字一句はっきりと口を動かす。
「こんな背丈で悪かったな」
「すみません。そんなつもりはなく……」
そう珠乃が言うのも本当で、背丈だけではなかった。彼は顔立ちも可愛らしく、全体的にあどけない見目をしているのだ。珠乃が慌てて謝ると、
「ま、お前にどう見られようと関係ないけどな。人間は中身だし」
彼は小さな鼻をふんと鳴らして、それから左右を見渡した。
「また来たときは、ここの窓をノックする。反応がなければ紙か何かを挟むから、開けるときに落とすなよ」
「はい――かしこまりました。どうかよろしくお願いいたします」
窓辺を離れようとする彼を、珠乃は身に染みついた丁寧なお辞儀で送り出そうとする。彼は恐縮せずにそれを見やってから、
「あ、そうだ。一つ質問があるんだけど」
と雪駄をぴたりと地に留めた。
「何でしょう」
珠乃は不思議がって頭を上げる。次いで彼から聞いたのは、
「菫お嬢様って、煙草吸うの?」
たとえ可能性でも、にわかには信じられない話だった。
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