【6】マンジュリカの懊悩(一)

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 店員も珠乃も。すぐには反応できないほど、極めて自然に彼はひさしに入った。歳は二十過ぎ。軍帽の形を軽く崩し、詰め襟を高く、軍袴は脚長に見えるよう特に工夫している。もっとも彼は飾らずとも抜群のスタイルをしていたが――ともあれ、彼は洒落っ気の強い陸軍士官だった。  軍帽のつばから雫が(したた)るのを見て、珠乃は肩掛けのバッグからハンカチを取り出した。 「お使いになられますか?」 「ああ。これは――幸運でした」  士官は晴れやかに微笑むと、珠乃の白いレースハンカチを指の部分で受け取る。見目や声もそうだが、所作が綺麗な人だ、と珠乃は思う。  軍帽を脱いだ青年は前髪を払ってから、顔周りの水気を丁寧に拭いた。彼が頬骨にハンカチをあてると、レースの糸と長い睫毛がつんとぶつかり、甘やかに震える。珠乃はそれが狭霧を伝わって伝わって、どこか遠い世界で高く美しい音が鳴り響くような、自分でも不思議な想像をした。 「こちらは洗ってお返ししますから。……甘いのはお好きですか?」 「え? ……はい」 「では二階に上がりましょうか」  青年の誘いは流暢で、珠乃に『お洗濯は結構です』と返す間を与えなかった。ハンカチを押さえておいて、パーラーに入ろうと甘やかす。これが世間でいう女釣りならば、とんでもない罠だ、と珠乃は内心で驚いた。 「ごめんあそばせ。私、人と待ち合わせをしておりますの」  頼りなくも芽生えてくれた警戒心にすがって、珠乃はそっと身を引いた。異性とむやみに接してはいけない――令嬢時代の心懸けも働いたが、大切な約束があるのは事実。 「ああ。――これは失礼」  青年は目を見開くと、微塵も見苦しさを感じさせない、紳士的な困り笑いをした。 「雨に濡れないように、奥に仕舞い込んだのでした」  彼はそう言って、軍衣の胸ポケットに手を差し入れる。若盛りの美しい指によって頭を出したのは、あの、菖蒲の紙封筒だった。
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