【6】マンジュリカの懊悩(一)

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「私はオレンヂヱードで。貴女は?」  青年は壁のお品書きからゆっくりと視線を移し、珠乃に柔らかく問いかけた。 「私も同じ。オレンヂヱードにしますわ」 「食事はどうします?」 「要りません。食べる方に一生懸命になってしまいそうなんですもの」  珠乃は何も見ず、ただ青年に微笑んだ。この人が珈琲ではなく甘いヱードを選んだのが面白い。 「いいのに。私は昼を食べ損ねたので、フルーツサンドイッチも頼みます」  甘味に甘味を足した青年はそう言って、片手を上げて女給を呼び寄せた。こちらをうかがい見ていた二、三人の女給がつつき合い、内の一人が席に来る。 「オレンヂヱード二つと、フルーツサンドイッチを一つ」  女給は滑稽なくらい真剣にうなずくと、誇らしげな足取りで下がって行った。着物の後ろで結ばれた白エプロンの紐が、上機嫌に揺れている。それを見送ったところで、珠乃は目の前の美丈夫へと注意を戻した。 「――はじめまして」 「こんにちは」  青年は珠乃にそう返し、気取らない動きで頭を下げる。 「神瀬(かみせ)(たすく)といいます。お会いできて光栄です」  ……神瀬丞。珠乃は頭の中で繰り返して、知らない名前だと思った。もしくは、自分が忘れているだけだろうか?  学校、お稽古、社交界、彼女が思いつく限りに記憶をさらっていると、 「貴女のことは? どちらのお名前でお呼びしたらいいでしょう?」  神瀬は首をかしいで聞いてきた。 「どちらでもいいです。お好きな方でお呼びくださいませ」 「では、珠乃さんで」  即決――というよりは、彼の中ではもうすでに決められていたような返事だ。本人が朱と言わなければ、元より珠乃として扱うつもりだったらしい。 「それでしたら――もうご存じなのは知っているのですけれど。あらためまして、菱村珠乃と申します」  そう名乗りながら、珠乃はふと気が付いた。もし、青年の返しが『はじめまして』だったなら。自分は黒田夫妻に対してと同様、朱の方で呼ばせていたかもしれない――。 「誠吾(せいご)の書き置きはきちんと伝わっていたようで。よかったです」 「茶目っ気がありましたわ。新聞紙の端をいただくなんて、そうそうありませんもの」  皮肉に聞こえないよう、珠乃はつとめて声を明るくした。 「誠吾さんとは、あの演奏者に変装していた方で合っておりますか?」 「ええ。あいつときたら……名乗りもせずにすみません」 「いいえ。仲介していただき、ありがたく思います」  言葉通り、珠乃は彼に心底感謝していた。今こうして菖蒲の人と会えているのは、誠吾が珠乃の思いを汲んだ結果である。 「お二人はどういった関係なのですか?」  根は優しいとはいえ、あの不遜で気難しそうな誠吾が従っているのだ。彼は神瀬には敬語を使うようだし、少なくとも熱海くんだりまで遣われるくらいには、神瀬のために動いている。  雇用関係かしら……という珠乃の予想を、神瀬は子どもっぽい笑みで裏切った。
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