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「私はオレンヂヱードで。貴女は?」
青年は壁のお品書きからゆっくりと視線を移し、珠乃に柔らかく問いかけた。
「私も同じ。オレンヂヱードにしますわ」
「食事はどうします?」
「要りません。食べる方に一生懸命になってしまいそうなんですもの」
珠乃は何も見ず、ただ青年に微笑んだ。この人が珈琲ではなく甘いヱードを選んだのが面白い。
「いいのに。私は昼を食べ損ねたので、フルーツサンドイッチも頼みます」
甘味に甘味を足した青年はそう言って、片手を上げて女給を呼び寄せた。こちらをうかがい見ていた二、三人の女給がつつき合い、内の一人が席に来る。
「オレンヂヱード二つと、フルーツサンドイッチを一つ」
女給は滑稽なくらい真剣にうなずくと、誇らしげな足取りで下がって行った。着物の後ろで結ばれた白エプロンの紐が、上機嫌に揺れている。それを見送ったところで、珠乃は目の前の美丈夫へと注意を戻した。
「――はじめまして」
「こんにちは」
青年は珠乃にそう返し、気取らない動きで頭を下げる。
「神瀬丞といいます。お会いできて光栄です」
……神瀬丞。珠乃は頭の中で繰り返して、知らない名前だと思った。もしくは、自分が忘れているだけだろうか?
学校、お稽古、社交界、彼女が思いつく限りに記憶をさらっていると、
「貴女のことは? どちらのお名前でお呼びしたらいいでしょう?」
神瀬は首をかしいで聞いてきた。
「どちらでもいいです。お好きな方でお呼びくださいませ」
「では、珠乃さんで」
即決――というよりは、彼の中ではもうすでに決められていたような返事だ。本人が朱と言わなければ、元より珠乃として扱うつもりだったらしい。
「それでしたら――もうご存じなのは知っているのですけれど。あらためまして、菱村珠乃と申します」
そう名乗りながら、珠乃はふと気が付いた。もし、青年の返しが『はじめまして』だったなら。自分は黒田夫妻に対してと同様、朱の方で呼ばせていたかもしれない――。
「誠吾の書き置きはきちんと伝わっていたようで。よかったです」
「茶目っ気がありましたわ。新聞紙の端をいただくなんて、そうそうありませんもの」
皮肉に聞こえないよう、珠乃はつとめて声を明るくした。
「誠吾さんとは、あの演奏者に変装していた方で合っておりますか?」
「ええ。あいつときたら……名乗りもせずにすみません」
「いいえ。仲介していただき、ありがたく思います」
言葉通り、珠乃は彼に心底感謝していた。今こうして菖蒲の人と会えているのは、誠吾が珠乃の思いを汲んだ結果である。
「お二人はどういった関係なのですか?」
根は優しいとはいえ、あの不遜で気難しそうな誠吾が従っているのだ。彼は神瀬には敬語を使うようだし、少なくとも熱海くんだりまで遣われるくらいには、神瀬のために動いている。
雇用関係かしら……という珠乃の予想を、神瀬は子どもっぽい笑みで裏切った。
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