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「いいえ。軍と警察は仲が悪い」
この一時のみ、神瀬の口調はシニカルになった。あえて軽く言う辺りが当事者らしく、またエリートらしくもあったが、彼はすぐに軍襟を正し、珠乃に続ける。
「そもそも、少尉という階級に大した権力はないんです。あいつ個人のツテは知りませんがね」
神瀬は珠乃が何を言いたいかを、よく察してくれたようだった。
「あいつというのは、藤二様のことですね」
珠乃は指先をグラスへと伸ばし、彼と同じその中身の、明色の冷たさを確かめた。あいつ。同じ呼び方でも、誠吾を指したときとは調子が異なる。
「お知り合いですか?」
鋭くなった珠乃の口調に、神瀬は整った眉を少しだけ持ち上げた。
「陸士(※陸軍士官学校)の同期なんです」
そう説明され、珠乃は彼の胸元――横に連なるいくつかの徽章へと目をやった。普段藤二が付けているものとよく似ているが、一つだけ色が違う。同輩でも別の兵科なのかもしれない、と珠乃は思った。
「けれども」
したたかな青年の声が、珠乃の注意を引き戻す。
「私とあいつが顔見知りであることと、手紙を出したことは関係ありません」
「――疑いませんわ」
とは言いながら、珠乃は考えている。
「もし藤二様と関わりがあるならば、私とこうして会ってはくださらないと思います」
まだ、考える。出世、私怨……神瀬個人のために自分を差し向けたのならば、こうして姿を見せはしないはず。今まで通り見えない霞から声をかけて、潜入した自分をいいように扱うのが一番だ。
「私には私の、神瀬様には神瀬様のご事情がある。それでいいのではないでしょうか?」
言いながら、珠乃は自身で納得した。相手が何者であれ自分の決断は変わらなかった。言葉の半分は自分への問いかけであり、答えは応だ。
珠乃は膝の上に両手を揃えると、神瀬に深々と礼をした。
「後はどうでも……貴方の手紙によって、私は助けられたのですわ。このたびは、ありがとうございました」
「――そう言っていただけると、救われます」
珠乃の思惟を、神瀬はどれだけ見抜いていただろうか。このときふっと笑い崩れた彼の表情に、珠乃の心はいやに惹かれた。
彼はけして、珠乃を騙し仰せて安心したのではない。何かが報われたような、それでも哀しそうな。今になってようやく、珠乃は彼を信じてもよいと判断したのだ。
「お待たせいたしました」
つと、二人の間に女給が皿を差し出した。
珠乃はほとんど忘れかけていたが、神瀬が頼んだフルーツサンドイッチだ。神瀬は珠乃に一言断りを入れてから、フルーツとクリームが美しく挟まったその一片に、いかにも楽しそうに食い付いた。
「美味しい。お嫌いでなければ、お一つどうですか」
「……では、一つだけ」
その光景があまりにも魅力的だったので、珠乃は頬を赤らめて言った。
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